2018年5月21日 (月)

わが国で初めて「玉砕」を礼賛したのは西郷隆盛だった NHK大河ドラマ『西郷どん』と麻生太郎「無敵の傲慢」の秘密

幾歴辛酸志始堅(幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し)

丈夫玉砕恥甎全(丈夫は玉砕すとも世に尽くすこともなくいたずらに生き長らえることを恥ず)

西郷隆盛

「ノイローゼの治療のため入院中なので自分の結婚式に出られません」

吉田茂

 安倍昭恵夫人と文壇バーでべろべろに酔っぱらっている林真理子が書いたのがNHK大河ドラマ『西郷どん』の原作だ。

 さっき私、初めてこのドラマを40分間、通して観たけど……。

 あらためまして今の独裁を堪能させていただきました!

 殺人鬼を英雄として描いてはいかんでしょ!?

 西郷隆盛の幼少時代からの盟友、大久保利通。大久保の孫娘・牧野雪子の夫が吉田茂。吉田茂の孫が麻生太郎だ。

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NHK『西郷どん』瑛太演じる大久保利通 左

 殺人鬼は名字を替えて何度も現れる。

 吉田茂と大久保家の縁組みについて、歴史家のジョン・ダワーはこう書いている。

<青年外交官吉田にとって牧野伸顕が義父として魅力ある存在だったことは明らかだが、この方程式の反対側――なぜ牧野は吉田を女婿に選んだのか――は決して明らかではない。吉田は特に有望な学生というのではなかった。一九〇六(明治三九)年の外交官試験の出来ばえをみても、少数の同期入省者の首位に近くはなかった。>(『吉田茂とその時代』中公文庫)

 ダワー御大も「さっぱりわからない」と書いているのだ。

<そのうえ、牧野は薩摩藩士大久保利通の息子であり、大久保といえば一八七九(明治一一)年に暗殺されるまでは明治初期の巨頭のなかでも真の実力者にのしあがっていたのである。こういう背景から、牧野は誇り高い薩摩の長い伝統のなかで最良の血を代表するとともに、日本の新興エリートの最上層部を代表していた。>

<牧野はのちに外務大臣また宮内大臣、内大臣となった、天皇が最も信頼した側近の一人である。>

「ベスト&ブライテスト」が、ダメ外交官に娘をくれてやったのはなぜなのか?

<牧野が出身藩による差別意識を持っていたことは吉田の回想にはっきり出ている。>

<私は他国者扱いであった。>

<本丸には入れなかったのである。よく伯(牧野)の親戚の人々が集まったところへ、私が出た場合でも何かお国めいた話が出ると、二言目には『吉田君の前で言うのはなんだが……』という前置きがかならずつくのである>

 吉田茂は「居場所のない親戚」だったのだ。周囲の親戚は吉田に気をつかっていた。そんな親戚いやだよなあ。

 それだけではない。

<吉田は威勢がよく短気なところがあるという評判をとっていた。だから誇り高い牧野がこのことを前もって知らなかったのなら、婿のほうはそれを思い知らせるのに時間を要しなかった。吉田は自分の結婚披露宴に顔さえ見せず、入院を決め込んでいた(伝えられるところ「ノイローゼ」の治療ということだが、おそらく大陸勤務のきびしさのなかでかかった性病のためでもあろうか)。>

 ……(腰が抜けた)。

 新郎、結婚式をドタキャン!?

 普通、婚約破棄だろ!?

 1941年。吉田雪子夫人は51歳の若さでこの世を去った。

<吉田は正妻が亡くなる前から、元新橋芸者の小りんこと坂本喜代と内々の、どこからみても親密な関係ができ、しかもそれが長くつづいた>

 なぜ、吉田茂は、大久保利通一族からキックアウトされなかったのか?

<牧野を何よりも信用させたのは、その財力と娘雪子に経済的安定を保証する能力だったのではなかろうか。>

 そう。解せない歴史の回答はいつだって金だ。

「居場所のない親戚」吉田茂は、その「横暴」と「気まずさ」以上の「利用価値」があったのだ。

 吉田茂は生まれてわずか9日後に吉田健三の養子となった。

<吉田健三は横浜へ移り、イギリスの海運会社ジャーディン・マセソン会社の支配人をつとめた。吉田茂の子どもの頃の思い出によれば、ジャーディン・マセソン会社の敷地内で遊んでいたという。比喩的な意味では、彼はその敷地内から遠くへさまよい出ることは決してなかったといえよう。>

「ジャーディン・マセソン」とは何か?

<ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。>

<設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。>

<清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。>(ウィキペディア)

 大久保利通一族との縁組みの2年前。1907年はじめ。吉田茂は、中国・奉天の日本領事館勤務のため大陸に渡った。その後、20年にわたり中国で働き、各地を麻薬中毒者の街に変えていった。

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2018年5月 9日 (水)

今、「地球は温暖化している」と言う人は交感神経失調症!!

 皮膚もおかしくなっています!!

 今すぐ、病院で診察を受けてください!!
 
 なぜ寒いのか?
 
 太陽活動が低下しているからです!!
 
 エントロピーの法則を学校で習いませんでしたか!?
 
 太陽は誕生し、死に向かっています。
 
 地球も誕生し、死に向かっています。
 
 地球は温暖化しますか?
 
 太陽活動の低下に伴い、寒冷化します。
 
 その現実が今です。
 
 5月なのに寒波が暴れまくって、大雨ですよ。
 
 地球が温暖化したから、今日の大雨に多くの人が難儀した。
 
 そう主張する人はコメントをください!! 是非、是非!!
 
「温暖化」と書いたテレビ記者、新聞記者は、全員、退場せよ!!
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2018年4月29日 (日)

麻生太郎家が所有した韓国「獄門島」 安眠島林業所のボス、林省三の記念碑は破壊され土に埋められた

 2011年6月。韓国安眠島で石碑が発掘された。

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土に埋められた記念碑

<林業所長 林省三公施恵紀念碑>

 石碑には破壊を試みた痕跡が複数あった。

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 林省三はこう書いている。

<安眠島の生松脂〈ナママツヤニ〉採取は大層儲かつてゐるのであります。>

<朝鮮合併の後、総督府の時代となつて、不要存林野に編入せられ民間に売却せらるることとなり、昭和二年三月麻生鉱業株式会社はこれを競売にて落札したのであります。そして私は、此の調査の時からこれに関与することゝなりまして、林業所開設以来十五年間、昭和十六年四月まで安眠島林業所長として専らこれが経営に従事したのであります。>(『実験生松脂採取法』丸山舎書店 1941年)

 1927年3月。麻生太吉は、この島を丸ごと買い取った。

 1941年4月。林省三は、莫大な札束とともに韓国から逃げ出した。

 地元議員は言う。

<安眠島の休養林によく行くが、松やにを採取した傷が所々に残っており、いつも残念な気持ちになる>(ディティニュース24 2015年12月23日)

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 無数に残る松の木の傷跡、破壊され土に埋められた記念碑……。この島には、麻生家が引き起こした災禍の跡が今もくっきりと刻まれている。

 麻生家は、いったい何人の外国人を殺したのか?

<一九三九年後半には麻生への朝鮮人の強制連行がおこなわれた。一九四五年までに麻生系炭鉱へと連行された朝鮮人は一万人を超えた>(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」)

 当時の特高警察は、信じがたい資料を残している。

<麻生鉱業 移入者7千996人、逃走者4千919人、現在人員2千903人、死亡者56人>(移入半島人労務者に関する調査表)

 なんと、6割以上(!!)の朝鮮人労働者が麻生家の鉱山から逃げ出したというのだ。

 麻生家が外国の島を買ったら、どうなる?

 安眠島のタコ部屋(納屋)からの生還者はこう語っている。

<一日の日当が50銭。><食事代にもならないお金で人々をこき使った>

<栄養失調で死ぬ者、マラリアで死ぬ者……>(京郷新聞 2005年12月9日)

自伝『荒野の石―美しき真珠を探す商人物語』(甲陽書房 1964年)によれば、林省三は、救世軍で狂信的ともいえる布教活動を行っていた。

「連続殺人魔」林省三は、めまいのするような美辞麗句を書き連ねている。

<伝道者の寝てる間に死んでゆく人々が多数にあるではないか。この人々は一体どうなるのか、キリストを信じて救われていなかったならば、永遠の滅亡にゆくのでないか、これを思えば悠々と伝道者は、眠ってなどいては相ならぬのである。

 噫嘻、どうか自分は睡眠らずに伝道のできるものになりたい。ひょっとしたら、そんな人間に成ることができるかも知れん、と私は、まじめに、真剣に考えていた。>

 私が眠っている間に死んでしまう人を救いたい?

 だから、私は眠らない?

 ちょっと解説、形容をする言葉が見つからない。

 韓国に入植した林省三は政治団体「洗足団」を結成。新聞に「洗足団宣言」を掲載させた。

<朝鮮人を軽蔑し陵辱し、彼等の弱点に喰い入って搾取し、自己の私腹を肥すが如きことは、実に我が国家将来に禍憂を残すものである。>

「差別し、搾取し、私腹を肥やす」ことこそが、麻生グループのビジネスモデルだ。

<斯くして鮮人は日本を怨み、斯くして両民族間の融和と協力の基礎は動揺と破壊の危険を感ずるに到るのである。

 是に於てか吾人は苟くも、内鮮融和に障害を来すが如き言語態度行動は自らこれを慎み、また弾劾排斥し、赤誠を傾注して、彼等同胞を援け起すために、国民運動の核心とならなければならぬ。>

「連続殺人魔」が「朝鮮人を援け起こす」?

 林省三の政治資金は警務局の機密費から出ていたが、この男、それを隠そうともしなかった。

 白昼堂々、新聞記者の前で札束を見せ、

「宣言文のポスターと檄文の印刷費実費なのです」

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安眠島の名所、松島に沈む夕日

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2018年4月28日 (土)

林芳正文科相の高祖父による朝鮮勧農株式会社「7500万円強奪事件」 韓国併合の結果、コメのメシの半分が朝鮮半島から消えた!!

 山口県下関市で醤油を作っていた林平四郎(林芳正文科相の高祖父)は、1915年、衆院議員となった。

 その3年後に、日本と韓国で激しい抵抗運動が起きた。

 1918年3月1日。韓国仁寺洞で「独立宣言」が読み上げられた。万歳三唱した宗教指導者ら33名は逮捕されたが、ソウルから始まった「独立万歳!」を叫ぶデモは、すぐさま数万人規模に膨れ上がった。朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47にのぼるという。

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「独立万歳!」を叫び行進する女子大生たち

 韓国併合(1910年8月)により、地主不明の土地が日本政府に接収された。その規模は、ソウル大学の李栄薫教授によれば、国土の10%。京大名誉教授、山本有造によれば、国土の3・26%。持ち主があいまいな土地で農産物を作っていた農民が小作農に転落し、大量の離村者が出た。

 その4か月後の1918年7月上旬。富山県中新川郡東水橋町(現・富山市)の女性たち二十数名が立ち上がった。連日、港に集まった人々は「地元で獲れたコメを運び出すな」と叫んだ。

 投機屋の買い占めなどにより米価が急騰していた。大阪堂島の米市場の記録によれば、

 1918年1月 1石(100升)15円

 同年6月 1石20円

 翌7月には30円を超えた。8月7日には、小売価格で1升50銭を記録。当時の普通の勤め人の月給は20円前後だった。

「米騒動」は全国に飛び火し、暴動を引き起こした。

 政府は米価問題を植民地・韓国で解決しようと試みた。

「韓国の労賃は非常に安い。開拓、干拓、灌漑、品種改良で日本は食糧輸出国の仲間入りをする」

「豊かな食により、韓国内の日本政府に対する不満を解消する」

 この「産米増殖計画」により、1930年、韓国で設立されたのが特殊会社「朝鮮勧農株式会社」である。林平四郎は取締役の椅子に収まった。

 その目的は?

 当然、カネだ。

 日本政府は「特殊会社は自己資金で運営する」と民営を謳っていたが、その裏にはからくりが仕込まれていた。

 近藤郁子の論文(立命館大学HP)によれば、

「工事資金4500万円、全肥購入代金3000万円を日本政府が融資する」

 合計7500万円。今の金額に直すと、なんと784億9350万円!!

 今、本屋には「日本の植民地支配によって韓国民は豊かになった」と書いてある本であふれかえっているが、本当にそうなのか?

 当時の日本人は一人当たり年間1・1石のコメを消費していた。一升瓶で110本分である。

 韓国料理といえば、焼き肉とキムチ、そして、白メシだ。

 1912年。朝鮮人のコメ消費量は0・77石。驚くほど少ない。

 林平四郎は、おなかをすかせた人々に何をしたのか?

 1932年。朝鮮人のコメ消費量は0・4石!!

 ほぼ半分になっているのだ!

 一週間に6日、白メシを食べていた人は、3日だけで我慢したということだ。

 林平四郎は、360度どこから見ても「泥棒」だが……。

 待て。ちょっと待て。

 朝鮮勧農株式会社設立から、わずか15年後。朝鮮半島にも玉音放送が流れた。韓国は解放された。

 林家は、7500万円を日本政府に返したのか?

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防衛相時代の林芳正

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2018年4月21日 (土)

満蒙開拓団「墓標なき8万人の死」と岸田文雄の資産 イスラエル政府はナチの残党を地の果てまで追いかけた!! 日本以外の国で「岸田文雄首相誕生」は絶対にありえない!!

 岸田文雄は広島1区選出の衆院議員だが、広島生まれではない。

 岸田が誕生したのは東京原宿の「隠田マンション」。日本で初めて「マンション」と呼ばれた白亜の豪邸だ。

 満蒙開拓団「墓標なき8万人の死」を札束に変えた。それが岸田家の資産形成のからくりだ。

 岸田文雄の祖父、岸田正記は、広島市で貸家業を営む家に生まれた。東京帝国大学法学部卒。1928年に衆院議員となっている。

 1931年。満州事変。

 1933年。岸田正記が「幾久屋百貨店」を設立。

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 幾久屋百貨店で買い物をしたことがある日本人が今、何人いるだろうか?

 幾久屋百貨店は日本には存在しない。傀儡「空洞」国家、満州国とともに消えた。

 日本最古の百貨店は三井財閥の三井呉服店だ。1904年。「三井・三越」は連名で顧客に案内状を送った。

<当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候>

 1920年。阪急電鉄が「白木屋(現・阪急百貨店)」を開業。満州事変以前、わが国では、三越、高島屋、大丸、そごうなど「呉服屋系」、阪急、近鉄、名鉄など「電鉄系」が覇を競い合っていた。

「呉服屋系」も「電鉄系」も満州に進出できず、誰も見たことのない「幾久屋百貨店」が大連、奉天に突如、出現した。

 なぜなのか?

「満州国は私が描いた作品だ」(安倍晋三の祖父、岸信介)

 1928年と1930年。商工省官僚、岸信介は2度にわたってドイツを視察し、「計画経済による産業の合理化」を主張した。

「ドイツでは、鉄鋼、自動車など重要産業にたいする国家権力の介入がますます厳しくなっている」

「ドイツの成功のカギは、自由競争を否定したことにある」

「トラスト、カルテルによる企業間の『協働』こそが、ドイツ製品のコスト低減を実現させた」

「わが国もドイツ型の国家統制経済体制を導入すべきだ」

 この主張により、岸信介は「革新官僚」と呼ばれるようになった。

 岸がドイツを視察した翌年、1931年に満州事変が起き、「革新官僚」に満州国という「まだ何も描かれていないまっさらなキャンバス」が与えられた。

 1933年3月。「満州国経済建設要綱」なるものが立案された。その柱は二つ。

「財閥の排除」

「一業一社主義」

 満州国の会社は「一業種につき一社のみ」認める、とされたのだ。満州国は「企業独占」の壮大な実験場となった。

 時を同じくして、岸田文雄の祖父、国会議員歴5年目を迎えた岸田正記が「幾久屋百貨店」を設立した。

 岸と岸田の密談は誰だって想像できるだろう。

岸田「満州の不動産業を俺が独占する。百貨店を作るから流通業も俺に任せてくれ」

岸「いいでしょう」

 

 作詞家、なかにし礼の父親は軍人の勧めで満州に渡り、牡丹江で日本酒を作っていた。苦難の末に作り上げた酒は「関東軍御用達」となり、満州における酒造業独占を目指した。

「一業一社主義」とは何か?

 満州の日本酒は、なかにし礼の父親が作る銘柄のみとなる。

 満州の大都市には、三越も東急もなく、岸田文雄の祖父、岸田正記が作った「幾久屋百貨店」しかない。

 結託すれば、日本酒販売のすべての利益を「たったふたり」で山分けできるのだ。

 儲からないわけがない。

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なかにし礼の満州時代を描いたテレビドラマ『赤い月』

 膨大な札束、金塊とともに満州から逃げ出した岸田文雄の祖父、岸田正記のその後の行動は、安倍晋三の祖父、岸信介よりも悪質だ。

 1942年5月20日。日本の歴史上初の「一国一党独裁」政党「翼賛政治会」が結成され、岸田正記は「国防委員長」の椅子に収まっているのだ。

岸田文雄の祖父は、大量虐殺魔のボスだった!!

岸信介(東条英機政権商工大臣)も当然、翼賛政治会の党員だったが、1944年、サイパン陥落を機に東条英機首相と対立。

「これから、日本本土への空襲が開始される。軍需担当の長として責務は果たせない。今すぐ講和すべきだ」(岸信介)

 1944年7月18日。東条内閣総辞職で大臣をやめた岸は、「反東条」の政治団体「護国同志会」を結成。この幻の政党には「元社会大衆党議員」も参加している。

 しかし、満州で大儲けした岸田正記は、翼賛政治会(→大日本政治会)所属議員のまま敗戦の日を迎えた。

 日本本土空襲の死者は、24万人とも100万人ともいわれている。

 戦後、イスラエルは、ナチの残党を地の果てまで追い、拘束し、処刑した。

 アウシュビッツ強制収容所の所長、アドルフ・アイヒマンがブエノスアイレスで拘束されたのは1960年5月。

 1953年4月。岸田正記は衆院選で当選。国会議員に復帰した。

 1957年7月。東京のど真ん中にある白亜の豪邸で、岸田文雄は産声を上げた。

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岸田文雄

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2018年3月 4日 (日)

すべての空爆を今すぐやめろ!! ライト兄弟初飛行からわずか10年 ふたりのファシストが飛行機に機関銃を積み込んだ 映画『風立ちぬ』で宮崎駿が英雄として描いたイタリア人の正体

空爆は残虐な特性にもかかわらず流血は少ない。ゆえに“高い立場”から見れば、従来の戦闘よりも人道的である。

 ジュリオ・ドゥーエ『制空』1921年

 

まだ、風は吹いているか? 日本の少年よ! では、生きねばならん。

 カプローニ 映画『風立ちぬ』より

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スタジオジブリのアニメーション映画『風立ちぬ』に登場するジョバンニ・バッチスタ・カプローニ

 1914年。イタリア軍飛行船部隊長が歩兵部隊へと左遷された。その男の名は、ジュリオ・ドゥーエ。

 その年、ライト兄弟が発明した飛行機に7・7ミリ機関銃が取り付けられ、史上初の戦闘機がイタリアで誕生した。

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 左遷の理由はこうだった。

「イタリア軍は“兵器としての飛行機”を認めていない。ドゥーエ隊長は、許可なく数機の爆撃機を航空会社に発注した」

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ジュリオ・ドゥーエ

 発注した相手の名は、ジョバンニ・バッチスタ・カプローニ。映画『風立ちぬ』で宮崎駿監督が主人公を導く英雄として描いた男だ。

 映画でカプローニは主人公の二郎(ゼロ戦設計者・堀越二郎)に語りかける。

「創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。10年を、力を尽くして生きなさい」

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 実際のカプローニはどうだった?

「ライト兄弟が発明した飛行機を、わずか10年で罪なき子どもを殺すマシーンに変えた」

 それがカプローニの「創造的人生」だった。

 ドゥーエは「カプローニ社付」武官として、同じオフィスにいた。

 これまで書いてきたライト兄弟の痛快無比な物語は、狂人たちが生み出した腐海にあっという間に呑み込まれていく。

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<(空爆は)敵国民の物理的精神的な抵抗を撃破する。><恐怖と破壊を敵の全領域に拡大することができる。>(『制空』)

 この本に「非戦闘員」という領域はない。「敵国民皆殺し」が前提、自明の理として書かれている。

<人口密集地が攻撃の目標に選定され、その地域が完全に破壊され、誰も逃げられなかったというニュースが伝わったときには、同様の地域の住民に何が起きるかを想像させるだけで十分である。>

<死が切迫し、破滅の恐怖が絶え間なく続けば、普通の生活を続けることはできない。>

 宮崎駿は講演でこう語っている。

「自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けている親の元でぬくぬくと育った。しかも、人が死んでる最中(空襲)にめったになかったガソリンのトラックで親子で逃げちゃった。乗せてくれって言う人も見捨ててしまった」

 それが宮崎駿監督の創造の原点ならば、なぜ、「軍用機の父」を英雄として描けたのか?

 1916年。ドゥーエとカプローニが史上初の大型爆撃機カプローニCA36を完成させたとき、ライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトは自らの航空会社「ライト社」を売り払い、航空ビジネスから手を引いた。

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カプローニCA36

「私たち(彼とウィルバー)は、浅はかにも、この世に長い平和をもたらしてくれるような発明をと願っていました。ですが、私たちは間違っていたのです」

<オービルはカナダのジョージア湾に別荘を買い、おいやめいたちと釣りを楽しんで暮らした。その間、アイロンを改造してトースターをつくったりしている。次兄の孫にあたるウィルキンソンさん(77)はいう。

「そのトースターで焼いたパンのうまかったこと。壊れたおもちゃを直してもらったこともある。前よりずっといいものになっていたよ」

 オービルは48年、76年の生涯を終えている。100万ドルの遺産を残した。葬儀の日、米軍のジェット戦闘機4機が上空を編隊飛行した。>(「ライト兄弟100年」朝日新聞電子版)

 無差別爆撃機とトースター。このコントラストはなんなのだろう?

 1919年。ドゥーエとカプローニは、23人が乗り込めるさらに巨大な3発3葉爆撃機カプローニCA45を完成させた。

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巨大爆撃機カプローニCA48

<空爆には、爆弾、焼夷弾、有毒ガスを適当な比率で使用する。>(『制空』)

 CA45は、カプローニの生まれ故郷、オーストリア=ハンガリー帝国を空爆した。この作戦の英雄が動物の姿になり宮崎駿監督『紅の豚』の主人公となった。

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<よいか、日本の少年よ! 飛行機は戦争の道具でも金儲けの手立てでもない。飛行機は美しい夢だ!>(映画『風立ちぬ』のカプローニ)

 ジュリオ・ドゥーエはベニート・ムッソリーニを強力に支援した。

 1930年。ドゥーエ死去。しかし、ジョバンニ・カプローニはファシスト党政権のために爆撃機を作り続けた。イタリア軍はエチオピアに侵攻し、ドゥーエの提案通りに爆弾、焼夷弾、毒ガスを使い分けた。

<まだ、風は吹いているか? 日本の少年よ! では、生きねばならん。>(映画『風立ちぬ』のカプローニ)

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 悪い冗談?

 いや、この混沌と倒錯、「誰も自分の頭で考えない」状況こそが、世にも奇妙な安倍晋三独裁の正体なのではないか?

 1939年に始まった日本軍の重慶空爆は、人類史上初の都市への無差別絨毯爆撃だった。堀越二郎が設計したゼロ戦13機がなかったら、ここまで非人間的なジェノサイドは起きていなかっただろう。

 重慶空爆が始まった頃、安倍晋三の祖父、岸信介は満州国総務庁次官に就任。岸が巨額の政治資金を手にしたのはこの頃だといわれている。

 2015年7月。米軍基地に反対する「辺野古基金」共同代表となった宮崎駿は、安倍晋三を強烈に批判した。

「『憲法の解釈を変えた偉大な男』として歴史に名を残したいと思っているのでしょうが、愚劣なことだ」

 沖縄だけではない。私たちは今も空からの攻撃を受けている。

<今後、起きる戦争は総力戦であり、制空権を握るものが勝利者となる。>(『制空』)

私が見上げる3月の空は、米国に占領されたままの「横田空域」だ。

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2018年3月 3日 (土)

米国軍産複合体と不正選挙→安倍独裁 ライト兄弟の名をのこす会社「カーチス・ライト」は今、中国で「いつまでたっても完成しない」原発を建設している

「必要な金とは他人に迷惑をかけない金額のことだ」

 ライト兄弟の父、ミルトン・ライト牧師の口癖

 

<ある国家が空を完全に支配できたなら、過去に可能であったよりもはるかに完璧に近く地球を支配できるはずだ。>

ウィリアム・ミッチェル准将『空軍による防衛』1925年

 

 1969年7月20日。ライト兄弟の翼が月面に降り立った。ニール・アームストロングの宇宙服の中には、ライト・フライヤー1号の羽布の切れ端が入っていた。

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ライト・フライヤー1号

 このとき、空爆による死者は何人?

 すでに数えようとする人すらいない。アームストロングが見た地球は「幽霊たちの星」「生まれてくることができなかった子どもたちの国」となっていた。

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月面に立つニール・アームストロング

「飛行機を発明したライト兄弟」

 この常識が常識になるまで、米国支配層によるライト兄弟への攻撃はやまなかった。

 7万ドルもの米国民の血税が注ぎ込まれた「大失敗作」、サミュエル・ラングレーの「グレート・エアロドローム」は、ポトマック川に消え、ラングレーは失意のまま、2年後に息を引き取った。

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世紀のがっかり劇 グレート・エアロドローム水没

 ところが……。

「世紀のがっかり劇」の11年後、ラングレーがボスだった国立スミソニアン協会が、とんでもない声明を出している。

<実際には、サミュエル・P・ラングレー教授こそ、人を乗せて持続的飛行が可能な飛行機械をはじめて設計・製作した。>

 この声明の裏には、唾棄すべきインチキがあった。

 二輪レースのチャンピオンだったグレン・カーチスは、ライト兄弟が初めて訴訟を起こした相手だ。

「カーチスの翼は私たちの特許を侵害している」

 スミソニアン協会をラングレーから引き継いだチャールズ・ウォルコットは、ひそかにカーチスに依頼した。

「グレート・エアロドロームを飛べるようにしてくれ」

 カーチスは、世紀の失敗作を「まったくの別物」に作り変えた。

 1914年。「カーチスのエアロドローム」が空中に舞い上がると、スミソニアン協会は「7万ドルの国家プロジェクトは成功した」と言い出した。

「1903年の失敗の原因は発射装置にあり、飛行機械自体はそのときも飛べた」

 スミソニアン博物館が「飛行機械1号」として展示したエアロドロームは、カーチスが施した改良部分が取り払われ、元の「飛べない」状態に戻されていた。

 米軍は、ライト社の飛行機を買わなかった。1910年11月14日。巡洋艦バーミンガムの甲板から飛び立ったのは、ヘリング・カーチス社のカーチス・ゴールデン・フライヤーだった。

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ゴールデン・フライヤー2号に乗るグレン・カーチス

 1912年5月30日。ライト兄弟の兄、ウィルバー・ライト死去。享年45。

 1916年。各国が次々に欧州の戦争に参戦してゆくなか、ライト兄弟の弟、オーヴィル・ライトは、ライト社を売り払い、航空ビジネスから手を引いた。

 翌年の1917年7月。ウッドロー・ウィルソン大統領が「航空法」に署名。6億4千万ドルの米国民の血税が航空会社に送金された。

 ライト兄弟の初飛行からの10年間、製造された航空機はわずか88機。政府が購入した軍用機は42機にすぎなかった。

 1917年。製造された航空機は2000機を突破した。

 1918年。13991機が製造された。

「親父はいつも言っていた。必要な金とは他人に迷惑をかけない金額だ、ってね。飛行機を作る目的が金儲けだったら、もう少し見込みのありそうなものに挑戦していたよ」(オーヴィル・ライト)

 2015年。私は中国の東芝製原発について調べていた。

「なぜ、建設がこんなに遅れているのか?」

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三門原発

 ある日、原子力産業新聞を読んでいて、私は我が目を疑った。

<しかし、同様にAP1000を採用した海陽原子力発電所向けのRCP最終検査で2013年1月に羽根車の脱落といった不具合が見つかったため、米国に返品された。>(原子力産業新聞 2015年11月2日)

 問題の一時冷却材ポンプを作った会社が「カーチス・ライト」だったからだ。

(つづく)

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2018年2月25日 (日)

米国軍産複合体と不正選挙→安倍独裁 ライト兄弟は米軍に飛行機を売りたくなかった! 歴史を変えた大発明家の父は「同胞教会」司祭として最も強く「奴隷制度反対」「差別をやめろ」と叫んだ

「私たち(彼とウィルバー)は、浅はかにも、この世に長い平和をもたらしてくれるような発明をと願っていました。ですが、私たちは間違っていたのです」

オーヴィル・ライト 死の直前のインタビュー

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人類史上初の有人飛行を成功させたライト・フライヤー1号

 1847年。ライト兄弟の父、19歳のミルトン・ライトはプロテスタント系「同胞教会」の門を叩き、5年後に牧師となった。

「同胞教会」はドイツ移民をルーツとしているが、欧州で生まれた教義が新大陸に輸入されたのではなく、「純米国製教会」を名乗った。

「同胞教会」の最大の特徴は、米国の奴隷農場が大きく西へと広がった1820年代から「奴隷制廃止」を強く訴えたことにある。

 6人の司祭のひとりに選出されたミルトン・ライトは、マイノリティの立場に立つ唯一の司祭として、女性の権利拡大を主張し、フリーメイソンの秘密主義を徹底的に批判した。

「ライト一家とは何者なのか?」

 ライト兄弟の兄、ウィルバー・ライトはこう書いている。

<商売で成功する者とは、常に自分の利益を念頭に置いた積極的な人間です。>

<商売は形を変えた戦争に他ならず、その戦争において、戦士は商売敵から利益を奪い取るためにしのぎを削ると同時に、すでに自分が勝ち得たものを守り通さなくてはなりません。戦闘的ではない者、自己主張ができない者、少しでも人を思いやるような者は、商売の世界では成功することはありませんでした。>

 我がライト一家にビジネスで成功する資格はあるか?

<我の強さ、押しの強さについて「ライト家の男は全員が欠けている」説に僕は全面的に賛成です。一家の男がひとかどの商売人になれず、あるいは、なりたくてもなれないのは、まさにそうした理由に他なりません。>(次兄ローリンへの手紙)

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ライト兄弟

 飛行機発明後、ライト社買収に最初に動いた「海運・鉄道王」コーネリアス・ヴァンダービルトは、全米一の大金持ち、米国ビジネス界のチャンピオンだった。

 ライト兄弟のもうひとつのルーツ、母方の祖父、ジョン・キョルナーは、生身で戦争と対峙し、故郷を捨てる、という重大な決断をした馬車職人だった。

 キョルナーの生地、ドイツのシュライツでナポレオンの仏軍とプロシア軍の激しい戦闘が起き、その惨状を目の当たりにした彼は「技術者が平和に生きることができる場所」米国を目指した。

 ライト兄弟が初めて見た工業機械は、キョルナーの馬車工場の木工旋盤だった。

 ライト社買収に乗り出したもうひとりの男、オーガスト・ベルモントは、ナポレオンの戦争をめぐり「当事国に両張り」「ウソ」「演技」「暴落株買い占め」など手練手管の限りを尽くし、大儲けをしたネーサン・メイヤー・ロスチャイルドが米国に派遣した男の子孫だ。

 ライト兄弟が印刷業を始めた頃、米国人の多くは自国を「生産者の共和国」とみなしていた。米国はなによりもまず「平等な国」であるべきで、買収、合併を繰り返し、巨大化する産業資本主義も、侵略、殺戮、植民地化を繰り返す欧州の帝国主義もともに「米国社会の敵」だった。

 19世紀の終わり。鉄道労働者を中心にストライキ、労働争議が繰り返され「血塗られた1880年代」と呼ばれた。

 ライト兄弟の伝記はどこの図書館にも複数あるが、以下の事実を強調していないのはなぜなのだろう。

米国で「帝国」と「生産者の共和国」が激しく闘っていた時代、ライト兄弟は『ウエスト・サイド・ニュース』紙の経営者、主筆だった。飛行機発明者になる前、ライト兄弟はジャーナリストだったのだ。父のミルトン・ライトも当時ではめずらしい全米向け週刊新聞『信仰展望』の編集長だった。

1883年8月。雑誌『パック』は労働者と資本家の闘いを描いた漫画を掲載している。

蒸気機関の馬にまたがった完全武装の巨人がハンマーを持った労働者を槍で突き殺そうとしている。労働者の後ろには無数の群衆が描かれているが、巨人の後ろにいるのはたった4人の大富豪だ。

「電信王」サイラス・フィールド。

 ライト社の株を買い占めたコーネリアスの弟、ウィリアム・ヴァンダービルト。

「造船王」ジョン・ローチ。

「鉄道王」ジェイ・グールド。

 1885年。ジェイ・グールドが所有する全長2万4000キロに及ぶ鉄道網がストライキで麻痺したとき、「鉄道王」はこう吐き捨てている。

「労働者階級の半分を雇って残り半分を殺させてみせる」

 ライト兄弟はそんな時代のジャーナリストだった。

 ライト兄弟が発明した飛行機が、都市への空爆、非戦闘員への無差別虐殺を始めた。

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「ライト」の名がついた飛行機はこんな醜悪な姿になった

カーチス・ライトP―40ウォーホーク

ライト兄弟はライト社を命がけで守ろうとした。兄のウィルバー・ライトは特許訴訟、会社乗っ取り騒動のさなか、腸チフスでこの世を去った。弟のオーヴィル・ライトが、第一次大戦直前にライト社をあっさりと手放したのはなぜなのか?

第一次大戦の5年後、オーヴィル・ライトはラジオでこう語っている。

「飛行機が戦争を恐ろしいものにしました。再び戦争をしたいと思う国が存在するとは思えないほどに」

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2018年2月19日 (月)

米国軍産複合体と2012・12不正選挙→安倍独裁 ボーイング社は「空からの無差別虐殺」を見越して米海軍が設立した!?

 ボーイング社創業者、ウィリアム・ボーイングの経歴を見て首を傾げぬ者はいないだろう。

 1909年。木材・金属を商っていたウィリアム・ボーイングが、シアトルで飛行機を見て感銘を受ける。

 そのわずか7年後の1916年。ウィリアムは航空機メーカー「パシフィック・エアロ・プロダクツ」社を設立。

 翌年の1917年7月。米国が第一次大戦に参戦し、ウッドロウ・ウィルソン大統領が「航空法」に署名し、6億4000万ドルの予算を確保した。

 1918年11月。大戦終結とともに米政府は航空機メーカーとの1億ドルもの契約を一方的に破棄。米軍は買い取った飛行機とエンジンを極端な安値で民間に放出して金を貯め込んだ。

 米国が欧州の戦争に首を突っ込んだわずか1年4ヵ月の間に「パシフィック・エアロ・プロダクツ」社製の第一号機「B&Wシープレーン」50機を購入した。

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 飛行機との初遭遇から、わずか9年で、材木商が軍需企業のボスへと変身?

 この素早さは何?

 その資金はどこから?

 とても、ウィリアム・ボーイング個人の技とは思えない。

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ウィリアム・ボーイングの肖像画

 その想像を絶するスピードの秘密は「開発秘話」「苦労話」「試作機での失敗」などなにもなく、突如、航空史に現れる「B&W」の名前の中にある。

 B=ウィリアム・ボーイング。

 W=ジョージ・コンラッド・ウェスターベルト・米海軍技師。

 ウェスターベルトは、海軍士官学校からマサチューセッツ工科大学に進んだエリート技術者だった。

 ボーイング社の航空機第一号は、米海軍の軍人が設計したのだ。

 となると、ボーイングの役割は「スポンサー」「金主」ということになるはずだが……その資金はどこから?

 1901年9月。NY州バッファローで開催された全米博覧会でウィリアム・マッキンリー大統領が「アナーキスト」レオン・チョルゴッシュに狙撃され、この世を去った。チョルゴッシュと行動を共にした者の証言によると、

「彼は米政府がフィリピン諸島で行った暴虐の数々に怒り狂っていた」

<今、フィリピンで起きていることが、戦争のふりをした血の流れない茶番劇だと思ったら大間違いだ。米兵の仕打ちには容赦がない。男も女も子供も、囚人も捕虜も、反乱分子の活動家も容疑者も、10歳以上の者は根絶やしにするつもりで殺している。フィリピン人はどのみち犬も同然で……ゴミ溜めに捨てるに限る、という考えが蔓延しているからだ。><両手を上げて降伏した無抵抗のフィリピン人を連行し、反乱分子である証拠など皆無であっても、一時間後には橋の上に並ばせ、ひとりずつ銃で撃って下の川に落とす。ハチの巣となった死体は川下に流れていき、発見した者への見せしめとなっている。>(フィラデルフィア・レッジャー紙 1901年11月)

 マッキンリー大統領暗殺は、血塗られた「アメリカの世紀」の幕開けを告げる事件だった。

 アナーキストが放った2発の銃弾は、皮肉な結果しか生まなかった。

 後釜のセオドア・ルーズベルトは、「元海軍次官」「元NY市警察本部長」。筋金入りの帝国主義者であり虐殺魔だった。

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セオドア・ルーズベルト

 ルーズベルトの時代に入り、フィリピンでの暴虐はさらに凄惨を極め、米軍はマッキンリーが手を出さなかった国々に軍艦と兵士を送り込んだ。

 ルーズベルトの最初の標的は、コロンビア領パナマ運河だった。

「1000万ドル出すからパナマの統治権を手放さないか?」

 コロンビアに拒絶されたルーズベルトは、すぐさま「グレート・ホワイト・フリート」を先陣に立てた大艦隊をパナマに派遣。独立派をけしかけ、革命をでっち上げ、パナマ共和国の独立を承認した。

 米艦隊の後ろを走ったのが、ウィリアム・ボーイングの木材運搬船だった。

「中南米の木材、金属をパナマ運河経由で建設ラッシュの米西海岸に送る」

 ボーイングはそう宣言し、「運河バブル」に沸くウオール街で株券、社債などを売り大儲けした。

 この金、海軍、大統領との癒着が「世界最大の軍用機メーカー」ボーイング社の礎だ。

 そして、日本全土への大空襲、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、平壌への空爆という「ボーイング社の最大事業」が開始されることとなる。

(つづく)

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2018年1月20日 (土)

伊藤詩織さん事件と原発マフィアの闇 スパコン疑獄・経産省ルート 大飯原発再稼働の最大の黒幕、今井直哉・総理秘書官を逮捕せよ! 安倍晋三を操る秘書官の叔父は、今井敬・日本原子力産業協会会長だ!

 2012年12月。不正選挙。

 2013年2月。わずか2票差で補正予算成立。このときから、安倍晋三政権から齊藤元章容疑者への血税巨額送金が開始された。

 問題は、「アベノミクス」や安倍政権の「緊急経済対策」を誰が書いているのか、ということだ。

 2015年9月。安倍晋三の記者会見に多くの人が腰を抜かした。

「一億総活躍社会」

GDP600兆円」

「経済成長年3%」

 最も驚いたのは、経済政策の素案を作成した経産省幹部だった。

<経産の素案には、一億総活躍という表現は入れていないし、GDPの六百兆円という数値目標も書いていません>(森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』2015年12月)

 素案作りを命じたのは今井尚哉・内閣総理大臣政務秘書官(経産省官僚)だ。素案を見た安倍から「わかりやすい数字を入れてください」と指示された今井は、2日たらずでこのとんでもない「新アベノミクス」をでっち上げたという。

 このわけのわからない経済政策により、またしても補正予算が成立し、私たちの血税60億円が斎藤元章容疑者と山口敬之・ペジー社顧問(元TBSワシントン支局長)に流れたのだから……。

 東京地検特捜部の捜査の本丸は今井尚也逮捕だ。そうならないとおかしい。

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右が今井尚哉総理秘書官

 今井尚哉は、大飯原発再稼働の最大の黒幕でもある。

 2011年6月。今井は経産省貿易経済協力局審議官のまま資源エネルギー庁次長に就任している。原発爆発の大惨事を受けて、急遽駆り出された形だ。

 原発再稼働をめぐり、民主党政権も割れていたが、最大の障害は、関西2府5県の自治体で結成された広域連合が再稼働反対を表明したことだった。

<(2012年)四月の上旬、『目立つ県庁ではなく、極秘に会いたい』というので、知事公館で今井さんとお会いしました。ブラックアウトと経済や人命への影響を強く説かれ、『知事として行政の役割を果たすべきだろう』と説得されました。><あのときは先行きが見えませんでしたから、折れる以外になかった。>(嘉田由紀子・元滋賀県知事)

 再稼働反対を強く主張していた橋下徹・大阪市長(当時)を豹変させたのも今井の直談判がきっかけだったという。

 霞が関「原発マフィア」のボスである今井にとって、齊藤元章容疑者ほど都合のいい人間はいなかった。

「日本が世界一のスーパーコンピュータを手にしたら、どこよりも先に小型熱核融合炉が実用化され、電気代がタダになる」

「一家に一台、原発をどうぞ」

 これほど熱く「原発の未来」を語る男は他にいないからだ。

 安倍晋三と今井尚哉の経歴は、「民主主義が機能していない」「憲法が守られたことがない」現状を何よりも雄弁に物語っている。

1920年4月。安倍晋三の祖父、岸信介が東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省(のちの商工省)に入った。

1931年。岸は「重要産業統制法」を書く。

「24種の重要産業に国民の血税を惜しみなく注ぎ込む」「お金をあげるから、重要産業は闇カルテルを作って大いに儲けなさい」というとんでもない法律だ。24種のうち7種が「製鉄・金属加工」産業であり、誕生した「鉄の闇カルテル」は12法人に及ぶ。

 戦争≒大量虐殺を行うためだ。

 ドイツ帝国首相、オットー・フォン・ビスマルクが遺した言葉。

「ドイツの問題は言論によって定まらない。これを解決するのはただ鉄と血だけである」

 重要産業統制法をもとに、1934年、日本製鐵(のちの新日鉄)が設立された。

 1936年10月。岸は満州国国務院実業部総務司長として大陸に渡る。

 帰国までのわずか3年間で岸信介が手にした巨額の政治資金の謎は今も解明されないままだ。

 半年後の1937年4月。今井尚哉の叔父、今井善衛が東京帝国大学法学部を卒業し、商工省に入省した。

 1939年10月。岸信介、帰国。今井善衛にとって岸は、17歳年上の上司となった。

 このとき、岸はこんな言葉を残している。

「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」

 1941年10月。岸信介は東条英機内閣の商工大臣に抜擢。宣戦布告書に署名した。

 1942年4月。衆院議員となった岸信介の初仕事は、産業界をまとめる組織作りだった。1943年。商工経済会(のちの経団連)設置法成立。原発マフィアの総本山、経団連を作ったのも岸信介だった。

 1945年。岸はA級戦犯として巣鴨プリズンでしゃがまされるが、3年後、無罪放免されてしまう。

 1950年4月。財閥解体により日本製鐵は解散。八幡製鐵、富士製鐵、日鐵汽船、播磨耐火煉瓦に4社分割された。

 1952年4月。今井尚哉のもうひとりの叔父(今井善衛の弟)、今井敬が東大法学部を卒業し、富士製鐵に入社した。

 1958年8月。通産省繊維局長となった今井善衛は、羊毛、綿の輸入自由化を宣言し、経済界を大混乱に陥れた。今井善衛こそ戦後最大の「対米盲従官僚」だった。

 1970年。八幡製鐵と富士製鐵が合併し、新日本製鉄が誕生。

 1979年4月。安倍晋三が神戸製鋼所に入社。

 1982年4月。今井尚哉が東大法学部を卒業し、通産省に入った。

 1993年6月。今井敬が新日鉄の社長に就任。

 1998年5月。今井敬が経団連会長となった。

 2006年6月。今井敬が社団法人「日本原子力産業協会」会長に就任。

 その3か月後の2006年6月。今井敬の甥、今井尚哉が安倍晋三内閣総理大臣政務秘書官となった。

 この国では民主主義は機能していない。

憲法で定められた「主権在民」が守られたためしがない。

戦前からずうっと、国家中枢は今井一族の「鉄の支配」下にある。

今井尚哉を逮捕せよ!!

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