安田純平の長い沈黙と「ゲイには生産性がない」という身内議員の言葉を「自民党の多様性」として放置する安倍独裁政権 今、観るべき映画『アラビアのロレンス』は、なぜ、史上最高作なのか?
真っ黒なスクリーン。太鼓の音で映画は始まる。
出だしの音楽は、ストラヴィンスキー的な混沌。それが「映画を観た人の脳裏に一生残る」テーマ曲へと変わり、さらに行進曲に転じるが、スクリーンは真っ黒なままだ。
最初に映し出されるシーンは、バイクの俯瞰。
金髪の男が歩み寄ってきて、ガソリンを入れ、タンクを丁寧に拭く。
男は数分後にバイク事故で死ぬ。
葬儀のシーンで最初のセリフが入る。
「偉大な男だった」
「しかし、この大聖堂にふさわしいかどうか?」
この映画は、「キリストになりたかったアンチ・クライスト」の物語なのだ。
今、観直しても、シナリオ、撮影が信じがたいほど素晴らしく、「戦争スペクタクル」「史劇」として最高の作品だが、「この映画を繰り返し観ている」という人に会ったことがない。
なぜ?
主人公のロレンス(ピーター・オトゥール)に感情移入できないからだ。
それは映画製作者の失敗ではなく、監督、シナリオライターが意図して「感情移入できない戦争の英雄」を作り上げているのだ。
もうひとつ。この映画に女優はひとりも出て来ない。「ロマンス」の要素はゼロ。戦争映画なのに男の子向け映画として作られていない。
女子ゼロの傑作映画があったら教えてほしい。
私は『遊星からの物体X』一本しか知らないし、『物体X』は南極が舞台の超破壊的ホラーで「英雄の存在を許さない」という意図で作られている。
映画『遊星からの物体X』
なぜ、ロレンスに感情移入できないのか?
ロレンスは「戦争の英雄」であると同時に「少数派の中の少数派」「壊れた人間」だからだ。
私は「主人公の壊れっぷりがすごい」と思って、映画『タクシー・ドライバー』を十数回も見てしまったが、『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールは、トラヴィス(ロバート・デニーロ)よりはるかに壊れている。
映画『タクシー・ドライバー』
謎のシーンの数々を見ていこう。
50人の部隊で砂漠を横断する、という誰もやったことのない冒険に挑むロレンスとアラブ人たち。ロレンスは人が乗っていないラクダを見る。
「それがあいつの運命だったんだ」
シャリーフのアリ(オマー・シャリフ)は言うが、ロレンスは、
「運命などない」
「俺はあいつを見つけ、助け出し、アカバに行く。運命にはそう書かれている。ここにな」
ロレンスは自分の頭を指差し、救出に向かう。
『アラビアのロレンス』は、アルベール・カミュ的な反抗者を始めて描いたアメリカ映画だと私は思うが……いや、待て。マーロン・ブランドの『波止場』があったか。これも観直さねば。
戦友を救出し、歓喜の声の中、オアシスにたどり着いたロレンスは、英国軍の軍服を脱いでぶっ倒れる。
「洗濯してくれ」
アリは、干された軍服を焚火に放り込む。
次のシーンに登場するロレンスは、純白の「族長の服」を着ている。アリは、ラクダに乗るときの半透明の薄い上着を差し出す。
上着をなびかせ疾駆するロレンス。しかし、次のシーンがどう考えても解せない。
「もう誰も見ていないな」というところまで来たロレンスが、新しい服を見つめ、上着を両手で持って踊るのだ。
後半の拷問シーンも奇妙だ。
トルコ軍に拘束されたロレンス。ボスは、捕えた数人の顔をじっくり眺め、
「こいつだ」
ロレンス以外の拘束者は解放される。
「ここに来て3年半になるが、月の裏側よりも退屈だ」
ボスは、ロレンスの服を脱がせ、胸の肉に触る。
「白いな」
ボスを殴ったロレンスは鞭打たれる。
拷問後に解放されたロレンスは、まったくの別人となり、アラブ人の仲間を見捨て、ロンドンへと帰還する。
久々に英国軍将校クラブに行くロレンスのシーンは奇妙奇天烈だ。
知った顔を見つけたロレンスが、両手を外に突き出したおてんばな「女の子走り」で軍人集団にとりつくのだ。
「新しい軍服をもらったの♡」
砂漠を走るピーター・オトゥールは、むちゃくちゃ力強く男性的だったのに……。
シナリオライターは明らかに「英国軍の英雄はゲイだった」と書いているのに、映画評論家は誰もそのことに触れず、『アラビアのロレンス』はアカデミー賞を独占した。
(つづく)
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