今年4月 小学校5・6年の教室に吉田松陰の幽霊が出た!! 「天下は一人の天下なり」吉田松陰 25歳 「天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり」山縣太華 75歳
今年4月。「道徳」が正式な教科となった。
<明日10月27日は、私の郷里が生んだ偉人、尊敬する吉田松陰先生の命日です。刑死される前日、安政6年(1859年)の今日、26日、松陰先生は、徹夜で遺書といえる留魂録(りゅうこんろく)を書き上げました。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
その冒頭に書かれた辞世の句、ここに込められた気概には圧倒されます。>(「教育再生」安倍晋三メルマガ 2006年10月26日)
ファシスト・安倍晋三の悲願が、12年後に教科書として結実したのだ。
『私たちの道徳』
<松陰先生は、松下村塾で若者たちに、志を持たせる教育を行いました。ここから巣立った塾生たちが明治維新の原動力となったことは、みなさんもよくご存知だと思います。>
『私たちの道徳 小学校五・六年』に吉田松陰の言葉が登場する。
<誠実に明るい心で>
<「至誠にして動かざる者はいまだこれ有らざるなり」
吉田松陰(思想家・教育者)
※真心を持って対すれば、動かすことができないものはない。>
日本の道徳教科化に対し、韓国の聯合ニュースはこう書いている。
<吉田は、伊藤博文など、日本の近代化の主役たちの師で、日本で崇められているが、征韓論と大東亜共栄圏などを唱え、朝鮮植民地化を含めた日本の帝国主義政策の理論を提供した人物でもある。>
吉田松陰は、何を「至誠」とし、何を動かしたのか?
1853年10月。初めて京都を訪れた23歳の吉田松陰は、漢詩の大作を書いた。
<聞説く今皇聖明の得
天を敬ひ民を憐み至誠より発す>
京都で老詩人の梁川星巌を訪ねた松蔭は、孝明天皇が現在の状況、時局、政局を嘆き悲しんでいることを知り、衝撃を受ける。
「天皇=至誠」というのが、吉田松陰の生涯を貫く思想だった。
<鶏鳴乃ち親ら斎戒し
妖気を掃ひて太平を致さんことを祈る>
「妖気」とは、アヘン戦争をはじめとする列強のアジア侵略の動きだ。
<従来英皇世に出てず>
これまで「神」である天皇は、現世の政治に口を挟まなかった。
<悠々機を失す今の公卿>
ゆえに、天皇の側近たちは絶好のチャンスを逃した。
<安んぞ天詔を六師に勅して>
天皇は自らの軍隊に命令を下し、
<坐ながら皇威をして八紘に被らしむるを得ん>
天皇は王座に座ったまま、武力で日本の力を全世界に示せ。
「八紘一宇」は吉田松陰の発案なのだ。
その2年後の1855年9月。ファシズムをめぐる論争が、吉田松陰と松蔭の師である山縣太華の間で起きた。松蔭が著書『講孟余話』の批評を太華に乞うたとき、師は松蔭の危険思想を徹底批判したのだ。
「天下は一人の天下なり」(吉田松陰 25歳)
「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」(山縣太華 75歳)
私たちは安倍晋三首相を民主的に選び、今、全国の小学校の教室を吉田松陰の幽霊が徘徊している。
松蔭と太華。あなたはどっちの考え方に共鳴しますか?
安倍晋三はこう書いている。
<その一人(吉田松陰の教え子)高杉晋作は、身分を問わずに組織した奇兵隊を立ち上げ、新しい日本への改革の動きを加速させました。士農工商の身分がはっきり分けられていた150年も前の日本にあって、出自を問わず、誰もが改革に参加できる機会を与えたことは画期的だったと思います。
ちなみに、私の名前「晋三」は、高杉晋作に由来しています。
次代を担う若者や子どもは社会の宝です。志ある国民を育て、品格ある国家をつくるためには、教育が大切であることは、いつの世でも、どこの国でも変わりありません。家族、自分たちの住む街、国、そして命を大切にする豊かな心を育てる教育、それができる教育力の再生が何よりも必要です。>(前出 安倍晋三メルマガ)
命を大切にする豊かな心?
明治維新後、高杉晋作は奇兵隊を解散し、命がけで闘った貧しい人々を容赦なく切り捨てた。
奇兵隊残党は防府に結集し、18の砲台を作り、明治新政府に抵抗した。
桂小五郎は反政府軍を徹底的に弾圧し、100人以上を死刑に処した。
「奇兵隊の処分は正しいのか?」
そう問われた高杉晋作は笑いながらこう答えた。
「之をして鬱陵島に移住せしめ、以て韓国を開拓せんと欲するのみ」
(つづく)
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