スイートピーステークスで10万円!!その他の競馬予想
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2011年6月。韓国安眠島で石碑が発掘された。
土に埋められた記念碑
<林業所長 林省三公施恵紀念碑>
石碑には破壊を試みた痕跡が複数あった。
林省三はこう書いている。
<安眠島の生松脂〈ナママツヤニ〉採取は大層儲かつてゐるのであります。>
<朝鮮合併の後、総督府の時代となつて、不要存林野に編入せられ民間に売却せらるることとなり、昭和二年三月麻生鉱業株式会社はこれを競売にて落札したのであります。そして私は、此の調査の時からこれに関与することゝなりまして、林業所開設以来十五年間、昭和十六年四月まで安眠島林業所長として専らこれが経営に従事したのであります。>(『実験生松脂採取法』丸山舎書店 1941年)
1927年3月。麻生太吉は、この島を丸ごと買い取った。
1941年4月。林省三は、莫大な札束とともに韓国から逃げ出した。
地元議員は言う。
<安眠島の休養林によく行くが、松やにを採取した傷が所々に残っており、いつも残念な気持ちになる>(ディティニュース24 2015年12月23日)
無数に残る松の木の傷跡、破壊され土に埋められた記念碑……。この島には、麻生家が引き起こした災禍の跡が今もくっきりと刻まれている。
麻生家は、いったい何人の外国人を殺したのか?
<一九三九年後半には麻生への朝鮮人の強制連行がおこなわれた。一九四五年までに麻生系炭鉱へと連行された朝鮮人は一万人を超えた>(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」)
当時の特高警察は、信じがたい資料を残している。
<麻生鉱業 移入者7千996人、逃走者4千919人、現在人員2千903人、死亡者56人>(移入半島人労務者に関する調査表)
なんと、6割以上(!!)の朝鮮人労働者が麻生家の鉱山から逃げ出したというのだ。
麻生家が外国の島を買ったら、どうなる?
安眠島のタコ部屋(納屋)からの生還者はこう語っている。
<一日の日当が50銭。><食事代にもならないお金で人々をこき使った>
<栄養失調で死ぬ者、マラリアで死ぬ者……>(京郷新聞 2005年12月9日)
自伝『荒野の石―美しき真珠を探す商人物語』(甲陽書房 1964年)によれば、林省三は、救世軍で狂信的ともいえる布教活動を行っていた。
「連続殺人魔」林省三は、めまいのするような美辞麗句を書き連ねている。
<伝道者の寝てる間に死んでゆく人々が多数にあるではないか。この人々は一体どうなるのか、キリストを信じて救われていなかったならば、永遠の滅亡にゆくのでないか、これを思えば悠々と伝道者は、眠ってなどいては相ならぬのである。
噫嘻、どうか自分は睡眠らずに伝道のできるものになりたい。ひょっとしたら、そんな人間に成ることができるかも知れん、と私は、まじめに、真剣に考えていた。>
私が眠っている間に死んでしまう人を救いたい?
だから、私は眠らない?
ちょっと解説、形容をする言葉が見つからない。
韓国に入植した林省三は政治団体「洗足団」を結成。新聞に「洗足団宣言」を掲載させた。
<朝鮮人を軽蔑し陵辱し、彼等の弱点に喰い入って搾取し、自己の私腹を肥すが如きことは、実に我が国家将来に禍憂を残すものである。>
「差別し、搾取し、私腹を肥やす」ことこそが、麻生グループのビジネスモデルだ。
<斯くして鮮人は日本を怨み、斯くして両民族間の融和と協力の基礎は動揺と破壊の危険を感ずるに到るのである。
是に於てか吾人は苟くも、内鮮融和に障害を来すが如き言語態度行動は自らこれを慎み、また弾劾排斥し、赤誠を傾注して、彼等同胞を援け起すために、国民運動の核心とならなければならぬ。>
「連続殺人魔」が「朝鮮人を援け起こす」?
林省三の政治資金は警務局の機密費から出ていたが、この男、それを隠そうともしなかった。
白昼堂々、新聞記者の前で札束を見せ、
「宣言文のポスターと檄文の印刷費実費なのです」
安眠島の名所、松島に沈む夕日
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山口県下関市で醤油を作っていた林平四郎(林芳正文科相の高祖父)は、1915年、衆院議員となった。
その3年後に、日本と韓国で激しい抵抗運動が起きた。
1918年3月1日。韓国仁寺洞で「独立宣言」が読み上げられた。万歳三唱した宗教指導者ら33名は逮捕されたが、ソウルから始まった「独立万歳!」を叫ぶデモは、すぐさま数万人規模に膨れ上がった。朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47にのぼるという。
「独立万歳!」を叫び行進する女子大生たち
韓国併合(1910年8月)により、地主不明の土地が日本政府に接収された。その規模は、ソウル大学の李栄薫教授によれば、国土の10%。京大名誉教授、山本有造によれば、国土の3・26%。持ち主があいまいな土地で農産物を作っていた農民が小作農に転落し、大量の離村者が出た。
その4か月後の1918年7月上旬。富山県中新川郡東水橋町(現・富山市)の女性たち二十数名が立ち上がった。連日、港に集まった人々は「地元で獲れたコメを運び出すな」と叫んだ。
投機屋の買い占めなどにより米価が急騰していた。大阪堂島の米市場の記録によれば、
1918年1月 1石(100升)15円
同年6月 1石20円
翌7月には30円を超えた。8月7日には、小売価格で1升50銭を記録。当時の普通の勤め人の月給は20円前後だった。
「米騒動」は全国に飛び火し、暴動を引き起こした。
政府は米価問題を植民地・韓国で解決しようと試みた。
「韓国の労賃は非常に安い。開拓、干拓、灌漑、品種改良で日本は食糧輸出国の仲間入りをする」
「豊かな食により、韓国内の日本政府に対する不満を解消する」
この「産米増殖計画」により、1930年、韓国で設立されたのが特殊会社「朝鮮勧農株式会社」である。林平四郎は取締役の椅子に収まった。
その目的は?
当然、カネだ。
日本政府は「特殊会社は自己資金で運営する」と民営を謳っていたが、その裏にはからくりが仕込まれていた。
近藤郁子の論文(立命館大学HP)によれば、
「工事資金4500万円、全肥購入代金3000万円を日本政府が融資する」
合計7500万円。今の金額に直すと、なんと784億9350万円!!
今、本屋には「日本の植民地支配によって韓国民は豊かになった」と書いてある本であふれかえっているが、本当にそうなのか?
当時の日本人は一人当たり年間1・1石のコメを消費していた。一升瓶で110本分である。
韓国料理といえば、焼き肉とキムチ、そして、白メシだ。
1912年。朝鮮人のコメ消費量は0・77石。驚くほど少ない。
林平四郎は、おなかをすかせた人々に何をしたのか?
1932年。朝鮮人のコメ消費量は0・4石!!
ほぼ半分になっているのだ!
一週間に6日、白メシを食べていた人は、3日だけで我慢したということだ。
林平四郎は、360度どこから見ても「泥棒」だが……。
待て。ちょっと待て。
朝鮮勧農株式会社設立から、わずか15年後。朝鮮半島にも玉音放送が流れた。韓国は解放された。
林家は、7500万円を日本政府に返したのか?
防衛相時代の林芳正
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「満州国にユダヤ人50万人を受け入れる」
日産コンツェルン創始者 鮎川義介
「日本はファシストの国だ」「私ができることは、あなたの計画を失敗させることである」
スティーブン・S・ワイズ 世界ユダヤ人会議議長
「河豚計画」について調べていて、わけがわからなくなった。
そもそも、計画の始まりについての記述が、資料によってバラバラ、まったくといっていいほど違うのだ。
<(鮎川義介は)「ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について」という論文を34年外務省から発表している。>(西井一夫『日本の戦争1 満州国の幻影』毎日新聞社 2010年)
「それを読めばいいんだな」と思って、国会図書館で検索すると、そんな文書はない。
秦郁彦の著作ではこうなる。
<この種の発想は一九三四年頃鮎川義介が満州国にユダヤ人五十万人を入れ、その代わりにアメリカ系ユダヤ資本を導入して開発するプランを立案したことに始まるとされる。>(秦郁彦『昭和史の謎を追う』文藝春秋 1993年)
人数が一桁違う。
井口治夫の著作ではこうなる。
<クライマンは、次のように鮎川に提案した。すなわち、もしも満州国がドイツからのユダヤ人難民に門戸を開いてくれるのであれば、クライマンは、クーン・ローブ投資銀行や他のユダヤ系金融機関から満州重工業向けの融資を斡旋しよう、と。
クライマンの提案に鮎川は俄然関心を示した。>(井口治夫『鮎川義介と経済的国際主義―満洲問題から戦後日米関係へ―』名古屋大学出版会 2012年)
そもそも、日本人の発案ではなかった?
三者の著作に共通するのは、日産コンツェルン創業者、国策企業「満州重工業」社長の鮎川義介が「河豚作戦」の中心人物だったということ。
鮎川義介」
満州の経済政策を任された岸信介こそ、「親戚」鮎川を満州に引き込んだ張本人だ。
巣鴨プリズンから釈放された直後の岸信介 右は実弟の佐藤栄作
「満州は私が描いた作品だ」(岸信介)
「河豚計画」は、安倍晋三の祖父、岸信介が描いた最もアバンギャルドな絵だ。
資料を書いたお三方とも信用に足る書き手だと私は思うが、以後、出典を示しながら書き進めることにする。
1918年。日本軍は、ロシア革命直後のシベリアに派兵した。日本軍が支援する反革命ロシア白軍は、ユダヤ人についてのプロパガンダを展開していた。宣伝戦の中核は『シオン議定書』という偽書、トンデモ本だった。
「ユダヤ人はフリーメーソンと結託し世界支配を計画している」
「ユダヤ人、カール・マルクス、レフ・トロツキーが主導したロシア革命は陰謀の始まり、ワンステップにすぎない」
シベリアから帰国した日本人がこの偽書を書き写し、「ユダヤ陰謀論」は大ブームを巻き起こした。
1917年以前、十数冊しかなかったユダヤ関連本は、1918~29年に109冊、1930~39年には254冊が発行された。
なかでも日本人に大きな影響を与えた『世界革命之裏面』(包荒子 1924年)を書いたのは、実は陸軍の安江仙弘・大連特務機関長だった(秦)。いや、樋口季一郎・ハルビン特務機関長だった(西井)。と、ここでも説がわかれている。
さらに奇妙な状況証拠がある。第二次大戦中にユダヤ人を援助した、として、この二人の日本帝国軍人の名前が、ユダヤ人協会「ゴールデンブック」に記されているのだ。
ユダヤ陰謀論プロパガンダを日本中にまき散らした軍人が「ユダヤの友」!?
ここで浮かび上がってくるのが、日本軍が作ろうとしたのはイスラエルなのか? それともアウシュビッツなのか? という疑問だ。
アウシュビッツ強制収容所
1937年12月。満州ハルビンで第一回極東ユダヤ人大会が開催された。主賓として招かれた樋口季一郎・ハルビン特務機関長は600人のユダヤ人の前で演説した(秦)。
「ドイツがユダヤ人を追放するなら、行き先を準備してやるべきである。私は個人として心からかかる行為を憎む」
樋口は万雷の拍手に包まれた。
在日ドイツ大使館は、すぐさま外務省に抗議した。
1938年7月。ユダヤ専門家の会合に出席した犬塚惟重陸軍大佐が次のように述べた(秦)。
「これはフグを料理するようなものだ。もしユダヤ人をうまく料理できれば……つまり、ずるがしこい彼らの性格を監視し、彼らのエネルギーを日本のために利用できれば、味も栄養もたっぷりの御馳走になる。しかし、料理のしかたを誤れば、日本の破滅にさえつながりかねない」
「河豚計画」という幻が立ち現れたときとほぼ同時期。満州ハルビンで日本人とユダヤ人が衝突する事件が起きている(西井)。
5000人以上のユダヤ人が暮らしていたハルビンの今「氷雪祭」の光景
1933年8月。ハルビンでホテル、映画館、劇場を経営する大金持ちの息子、シモン・カスペが誘拐され、10万ドルの身代金が要求された。3ヵ月後、シモンの遺体が発見され、日本人の犯人グループが検挙された。
罰を下そうとした中国人判事は関東軍によって逮捕され、犯人グループは、わずか一週間の拘束で特赦により解放された。
関東軍の暴挙に怒り、また、身の危険を感じたユダヤ人はハルビンの街を捨てた。ユダヤ人5500人のうち7割が消えたといわれている。
(つづく)
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岸田文雄は広島1区選出の衆院議員だが、広島生まれではない。
岸田が誕生したのは東京原宿の「隠田マンション」。日本で初めて「マンション」と呼ばれた白亜の豪邸だ。
満蒙開拓団「墓標なき8万人の死」を札束に変えた。それが岸田家の資産形成のからくりだ。
岸田文雄の祖父、岸田正記は、広島市で貸家業を営む家に生まれた。東京帝国大学法学部卒。1928年に衆院議員となっている。
1931年。満州事変。
1933年。岸田正記が「幾久屋百貨店」を設立。
幾久屋百貨店で買い物をしたことがある日本人が今、何人いるだろうか?
幾久屋百貨店は日本には存在しない。傀儡「空洞」国家、満州国とともに消えた。
日本最古の百貨店は三井財閥の三井呉服店だ。1904年。「三井・三越」は連名で顧客に案内状を送った。
<当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候>
1920年。阪急電鉄が「白木屋(現・阪急百貨店)」を開業。満州事変以前、わが国では、三越、高島屋、大丸、そごうなど「呉服屋系」、阪急、近鉄、名鉄など「電鉄系」が覇を競い合っていた。
「呉服屋系」も「電鉄系」も満州に進出できず、誰も見たことのない「幾久屋百貨店」が大連、奉天に突如、出現した。
なぜなのか?
「満州国は私が描いた作品だ」(安倍晋三の祖父、岸信介)
1928年と1930年。商工省官僚、岸信介は2度にわたってドイツを視察し、「計画経済による産業の合理化」を主張した。
「ドイツでは、鉄鋼、自動車など重要産業にたいする国家権力の介入がますます厳しくなっている」
「ドイツの成功のカギは、自由競争を否定したことにある」
「トラスト、カルテルによる企業間の『協働』こそが、ドイツ製品のコスト低減を実現させた」
「わが国もドイツ型の国家統制経済体制を導入すべきだ」
この主張により、岸信介は「革新官僚」と呼ばれるようになった。
岸がドイツを視察した翌年、1931年に満州事変が起き、「革新官僚」に満州国という「まだ何も描かれていないまっさらなキャンバス」が与えられた。
1933年3月。「満州国経済建設要綱」なるものが立案された。その柱は二つ。
「財閥の排除」
「一業一社主義」
満州国の会社は「一業種につき一社のみ」認める、とされたのだ。満州国は「企業独占」の壮大な実験場となった。
時を同じくして、岸田文雄の祖父、国会議員歴5年目を迎えた岸田正記が「幾久屋百貨店」を設立した。
岸と岸田の密談は誰だって想像できるだろう。
岸田「満州の不動産業を俺が独占する。百貨店を作るから流通業も俺に任せてくれ」
岸「いいでしょう」
作詞家、なかにし礼の父親は軍人の勧めで満州に渡り、牡丹江で日本酒を作っていた。苦難の末に作り上げた酒は「関東軍御用達」となり、満州における酒造業独占を目指した。
「一業一社主義」とは何か?
満州の日本酒は、なかにし礼の父親が作る銘柄のみとなる。
満州の大都市には、三越も東急もなく、岸田文雄の祖父、岸田正記が作った「幾久屋百貨店」しかない。
結託すれば、日本酒販売のすべての利益を「たったふたり」で山分けできるのだ。
儲からないわけがない。
なかにし礼の満州時代を描いたテレビドラマ『赤い月』
膨大な札束、金塊とともに満州から逃げ出した岸田文雄の祖父、岸田正記のその後の行動は、安倍晋三の祖父、岸信介よりも悪質だ。
1942年5月20日。日本の歴史上初の「一国一党独裁」政党「翼賛政治会」が結成され、岸田正記は「国防委員長」の椅子に収まっているのだ。
岸田文雄の祖父は、大量虐殺魔のボスだった!!
岸信介(東条英機政権商工大臣)も当然、翼賛政治会の党員だったが、1944年、サイパン陥落を機に東条英機首相と対立。
「これから、日本本土への空襲が開始される。軍需担当の長として責務は果たせない。今すぐ講和すべきだ」(岸信介)
1944年7月18日。東条内閣総辞職で大臣をやめた岸は、「反東条」の政治団体「護国同志会」を結成。この幻の政党には「元社会大衆党議員」も参加している。
しかし、満州で大儲けした岸田正記は、翼賛政治会(→大日本政治会)所属議員のまま敗戦の日を迎えた。
日本本土空襲の死者は、24万人とも100万人ともいわれている。
戦後、イスラエルは、ナチの残党を地の果てまで追い、拘束し、処刑した。
アウシュビッツ強制収容所の所長、アドルフ・アイヒマンがブエノスアイレスで拘束されたのは1960年5月。
1953年4月。岸田正記は衆院選で当選。国会議員に復帰した。
1957年7月。東京のど真ん中にある白亜の豪邸で、岸田文雄は産声を上げた。
岸田文雄
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<白人は悪鬼><この地球上から撲滅しなければなりません。>
石原莞爾 関東軍参謀 1919年7月18日 夫人への手紙
<満州重工業の役員に米国人を迎え入れる用意がある。><10億円相当の米国資本を受け入れる用意がある。>
鮎川義介 日産コンツェルン創業者 ニューヨーク・タイムズ 1938年1月16日
究極のヨタ話。世界史上、こんなにとんでもない絵空事は見たことも聞いたこともない。
1931年9月。石原莞爾は南満州鉄道を爆破し、「中国人がやった」と大ウソをついた。
石原莞爾
翌10月。石原は錦州を空爆し、あっという間に傀儡「空洞」国家、満州国がでっち上げられた。
「満州には国境がある。首都もある。しかし、国民はひとりもいない」(なかにし礼)
国際連盟脱退直前の演説で、安倍晋三の親戚でもある松岡洋右は大演説をぶった。
「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」(国際連盟総会「十字架上の日本」演説 1932年12月8日)。
いったいどの口で言っているのか?
直後、松岡は満州鉄道総裁の椅子に収まった。
「米国との世界最終戦争をやって勝利するのだ」という妄想にとらわれた石原莞爾が、満州に呼び寄せたのが、安倍晋三の祖父、岸信介(満州国実業部次長)と鮎川義介(日産コンツェルン創業者)だった。
1937年11月。満州に渡った鮎川は、すぐさま松岡洋右の元に駆け付けている。鮎川は、満州の実業家に以下を力説した。
「満州の経済開発には30億ドル相当の投資が必要」
「このうち3分の1、できれば半分の投資は、米欧、主に米国から確保する必要がある」
……(腰が抜けた)。
そんなこと、できるわけがねーだろ!?
「地球上から白人を抹殺する」と言った男の手下が、「白人の皆様、10億ドルください」と言っているのである。
4年後、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃した。
鮎川義介は岸信介と協議し、日産コンツェルンが満州に丸ごと移転して作る半官企業「満州重工業」の青写真、「岸信介メモ」を書かせた。
これがまた、とんでもない代物だ。
「資本金の半分は日産が出すが、半分は満州国が出せ」
「設立後10年間、日産の投資の元本は満州国が保証しろ」
「日産の投資に対して6%の利益を保証しろ」
鮎川義介が絶対に損をしない絵図を書いたのは岸信介なのだ。
岸信介が近衛文麿内閣に提出した政策提言については……ちょっと形容する言葉がない。
石炭・鉄鋼部門への投資6億41000万円。うち日産は2億円出し、残りの4億4100万円は米国人が出す。
希望的観測にもほどがある!!
自動車・鉱業・航空機への投資12億5000万円。うち日産は3億7850万円出し、7億5000万円は米国人が出す。
満州の重工業への投資総額約24億円。そのうち米国人は14億2100万円を出す。
寝言は寝て言え!!
で、どうなった?
って、聞くまでもないよね。
米国は満州国を承認していない!
投資の前提は「日本が日中戦争に勝つ」こと!
満州に投資する米国人はひとりもいなかった。
大失敗確定後、苦し紛れに鮎川義介と軍部が画策したのが「河豚作戦」だった。
満州重工業設立直後。クーン・ローブ投資銀行代理人、マックスウェル・クライマンが鮎川義介にこう持ちかけた。
「もし、満州国がドイツからのユダヤ系移民を受け入れるなら、クーン・ローブやユダヤ系金融機関の満州重工業への投資を斡旋しますよ」
もし、「河豚作戦」が成功していたら、数千、数万のユダヤ人が満州の地で虐殺されただろう。
(つづく)
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明治20年(1887年)4月26日。前代未聞の出来事が麻布十番で起きた。
外務大臣とはいえ、一私邸である井上馨の家に明治天皇が「行啓」。裏庭で歌舞伎見物に興じたというのだ。
「この国のボスは誰なのか?」
井上馨は国民に見せつけた。
「伊藤博文首相が親分じゃないんだよ」
しかし、金の流れを追っていけば、「この国のボスは井上馨でもない」ことがはっきりと見えてくる。
1862年5月。井上馨は「長州ファイブ」の一人として英国に密航。このとき「渡航費をくれ」と泣きついたのが、ジャーディーン・マセソン商会横浜支店のボス、サミュエル・J・ガワーという男だった。
井上馨
ジャーディーン・マセソン商会は、清国へのアヘン密輸企業だった。
アヘン戦争を引き起こしたのもやつらだ。
清国がアヘン密輸に規制をかけようと動いたとき、ジャーディーン・マセソン商会は英国政治家に札束を配りまくり、わずか9票差で「清国への派兵」を決定させた。
英国に密航した井上馨は、イの一番にイングランド銀行を訪れている。このときのイングランド銀行のボスは「理事」アルフレッド・ド・ロスチャイルド。ジャーディーン・マセソンの麻薬ビジネスに巨額の資金を貸し付けたのもロンドンのロスチャイルド家だ。
井上馨はロンドンで何を学んだのか?
明治元年(1868年)6月。井上馨は長崎製鉄所御用掛に就任。国産ライフル製造をスタートさせた。
翌年7月。井上馨は造幣局知事に就任。「武器と紙幣の印刷」をその手中にした。
「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでもよい」
これは、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの言葉とされるが真偽は不明。ロスチャイルドの家のビジネスは「戦争をする2国に巨額融資(両張り)」結果にかかわらず「借金のカタにその国の紙幣の印刷権をかっさらう」というもので、マイヤーが手の内を明かすようなことを公に言うことはまずないと私は思うが……。
一方、「維新10傑」の一人でありながら、井上馨は首相にもなれず、名言の類はまったく残していないし、ドラマでは常に脇役だ。
「首相の肩書などいらぬ。紙幣の印刷権だけくれ」ってことだったのでは?
戦争へと突き進む安倍晋三は、井上馨一族の末裔だ。
安倍晋三の祖父、岸信介は、満州でアヘン密輸業者と結託し、巨額の政治資金を得たといわれている。
明治元年(1868年)。ジャーディーン・マセソン商会横浜支店の支店長の椅子に座った男の名は、吉田健三。健三は、政治家の竹内綱から吉田茂をもらい受け、養子とした。
財務大臣の椅子にしがみついている麻生太郎は、吉田茂の孫だ。
戦後の憲政史上「最凶悪タッグ」安倍・麻生組もまた親戚だ。
吉田茂の長女、桜子の夫・吉田寛は、首相岸信介・佐藤栄作兄弟の従兄弟、元外相の松岡洋右の甥にあたる。
太平洋戦争末期の1943年。岸信介は、商工経済会、のちの経団連を作った。
1998年5月。今井敬(新日鉄社長)が経団連会長の椅子に座った。今井敬の甥が今井尚哉・首相補佐官だ。安倍昭恵夫人は今井家の親戚であり、ここでも「一族」が牛耳る構造となっている。
嘉田由紀子、橋下徹に直訴して大飯原発再稼働を実現させた「原子力マフィアの武闘派」今井尚哉は、通産相→経産省の部下で安倍官邸を固めた。原子力マフィアの必殺技は、昔も今も、情報隠ぺい、公文書隠ぺい、公文書書き換え、マスコミ操作だ。
明治維新は「日本の夜明け」ではない。断じて違う。
この物語には「国士」などひとりも登場しない。
「戦争をやって外国人を大儲けさせ、そのおこぼれをもらう」やつらがこの国を支配した。ずうっと。もちろん、今も。
日本が最初にやった「無謀な戦争」「大量虐殺」は日露戦争だった。その戦費を出したのは、ドイツ、フランクフルトでロスチャイルド家と同じ家(緑の盾の家)に住んでいたシフ一族の末裔、ジェイコブ・シフだった。これは、井上馨の英断でも努力の結果でもなく、「自然な流れ」だ。
ジェイコブ・シフ
日露戦争の結果、日本はロシアが支配していた中国の鉄道利権を手に入れ、それが満州国の礎となった。
商工省の官僚だった岸信介と日産コンツェルン創業者、鮎川義介は、莫大な札束とともに満州国から逃げ、満蒙開拓団は完全に見捨てられ、8万人の日本人が死んだ。
安倍晋三と鮎川義介もまた同じ井上馨一族なのだ。
国会包囲した3万人は、悪夢を終わらせようとして闘っている。
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「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」「これはフグを料理するようなものだ」
大日本帝国海軍大佐 犬塚惟重
「やっちゃえNISSAN」
矢沢永吉
1939年10月。岸信介は莫大な札束とともに満州から帰国した。
その6年後、満州で8万人の日本人が死んだ。彼らに墓はない。
同じ時期、満州からの引き揚げを検討していたもうひとりの男がいた。
日産コンツェルン創業者、鮎川義介である。鮎川は日産自動車を立ち上げたばかりだった。
鮎川義介
鮎川義介の経歴を読んで、「ああそうなのね」とストンと腑に落ちる人は誰もいないだろう。
鮎川の母は「明治の元勲」井上馨の姉・常子の娘。井上は鮎川の大叔父にあたる。
井上馨の経歴もめちゃくちゃだ。
長州藩士。安倍晋三の親戚。1862年8月。藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船の壬戌丸を購入。ところが、わずか3ヶ月後に高杉晋作、伊藤博文らと建設中のイギリス公使館を焼き討ち!
ところが、「長州ファイブ」として英国に密航したとたん、開国派に転向! トーマス・ブレーク・グラバー(長崎グラバー邸の主)から大量の武器を購入し、江戸幕府をぶっ潰す!!
明治政府で外務大臣などを歴任する傍ら、三井物産、日本郵船などを創業。
ロスチャイルド財閥の重鎮ジェイコブ・シフから日露戦争の資金の約4割を引き出すことに成功。日露戦争勝利の結果こそが、満州国だ。満州はロスチャイルド家の資金によって、この地上に忽然と姿を現し、8万人を殺して忽然と消えた。
末裔、鮎川義介の経歴はもっとめちゃくちゃだ。
1903年。東京帝国大学工学部卒業後、身分を隠し、日給48銭の一職工として東芝で働く。3年後、東芝は米ゼネラル・エレクトリックに買収される。これは、米国企業による日本企業買収第一号だ。東芝は終戦直前まで米国に送金を続けた。満州の発電所に当時世界最大のタービンを納入し、大儲けをしたのは東芝だ。
すぐさま渡米。週給5ドルの見習工として米クルド・カプラー社の可鍛鋳鉄工場で約1年間働く。
井上馨の援助で戸畑鋳物株式会社(現日立金属)を創立。その後は、革新技術を開発した会社を次から次に買収していった。
安来製鋼所を吸収合併。株式会社木津川製作所・帝国鋳物株式会社を吸収合併。公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。
満州の経済振興を託された官僚、岸信介の「産業開発5カ年計画」について、岸の親戚の鮎川義介はこう書いている。
<当初の資金計画では30億円(現価で約7兆5千億円)もあれば大体の計画は遂行しうるものと考えていた。そのうち10億円はドル資金>(『あゝ、満州 国つくり産業開発者の手記』満州回顧集刊行会)
満州計画経済資金の3分の1を米国人が出す!?
そんなこと、できるわけがねーだろ!?
<日産がやらなくて、他に誰がやる。>(日産自動車CMコピー)
この裏には、「奇形世界」と呼ぶしかない、岸信介と鮎川義介のユダヤ人政策があった。
1934年。岸信介が満州に行く2年前。日産自動車のボス、鮎川義介は論文を発表した。そのタイトルは……。
「ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について」
(つづく)
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<名にかへてこのみいくさの正しさを来世までも語り残さむ>
岸信介 東京裁判直前の歌
「ソ連侵攻当日の朝、関東軍の官舎はもぬけの殻だった」
関東軍憲兵 菅原幸助
「全国の隊員諸君。文書が適切に管理されているのか、もう一度、確認していただきたい」
小野寺五典防衛相 自衛隊幹部約1000人への訓示
「関東軍の引っ越しのために特別列車を作った」(元満鉄職員・福島功夫さんの証言 NHK『取り残された民衆』2006年8月9日放映)
1945年8月9日。満州国の首都にあった新京駅から特別列車が出た。
新京駅
「貨車が14台、客車は4台ぐらいだった」
貨車14台に対し、人間を運ぶ車両はたった4台?
14台の貨車に詰め込まれたのは、関東軍司令部から運び込まれた大量の書類だった。
天守閣がそびえ建つ関東軍司令部
ソ連侵攻の約1時間後、午前2時に関東軍憲兵だった菅原幸助さんは叩き起こされた。
「これより避難列車の警護を行う」
集められた8名の顔ぶれを見て菅原さんはピンときた。
「ロシア語、中国語、朝鮮語に堪能なやつばかりだ」
出発前に発せられた上官の言葉は360度どこからどう見ても異常なものだった。
「武器で戦ってもダメだ。道中の問題は金で解決せよ。金はうんと積んだから、いくら使ってもいいよ」
関東軍は特別列車にトランクを運び込んでいた。
「トランク8つぐらい。中身はすべて100円札だった」
その後、満州各地の駅を出発した避難列車からは、軍人、軍属、満鉄関係者以外の日本人が叩き出された。子ども、老人も引きずられていった。
満州で8万人が死んだ。
これは、東京大空襲、広島への原爆投下、沖縄戦をしのぐ最大の民間人犠牲者数だ。
彼らに墓はない。
満州大虐殺6年前の1939年10月。満州から帰国の途に就いた岸信介(当時、満州国総務庁次長)はこう語っている。
「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」
1945年8月15日。玉音放送が流れたが、満州での虐殺は激しさを増していた。東条英機内閣商工大臣を辞職した岸信介は帰郷していた山口市でGHQに逮捕された。
それでもなお、岸信介は「戦争は正しかった」と言い張った。
「侵略戦争という者もいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかった、という考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」
「終戦後、各方面に起こりつつある『戦争を起こした事が怪しからぬ事である』との考え方に対して、あくまで聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」
岸信介 この写真は東条英機ら7名のA級戦犯が処刑された翌日に撮影された 隣は実弟の佐藤栄作 1948年12月24日
私たちは何に支配されているのか?
やつらは8万人を見殺しにして、「札束と戦争の記録」を満州から持ち帰った。その金は今も安倍晋三家と自民党の金庫にある。
自衛隊が海外派兵されると、「戦争の記録」である日報が闇に葬られた。
1960年6月15日。岸信介首相を33万人のデモ隊が包囲した。デモ隊は門を叩き壊して国会内に侵入し、樺美智子さんが亡くなった。
その5年後に刊行された『あゝ、満州 国つくり産業開発者の手記』(満州回顧集刊行会)で岸信介はこう書いている。
<民族協和、王道楽土の理想が輝き、科学的にも、良心的にも、果敢な実践が行われた。それは正しくユニークな近代国家つくりであった。直接これに参加した人々が、大きな希望のもとに、至純な情熱を傾注しただけはなく、日満両国民は強くそれを支持し、インドの聖雄ガンヂーも遥かに声援を送った。当時、満州国は東亜のホープであった。>
孫の安倍晋三は、国会を包囲した数万人の怒号の下、戦争法案を強行採決した。
デモ隊の最前列に元自衛官の故・泥憲和さんがいた。
「突然、飛び入りでマイクを貸してもらいました。 集団的自衛権に反対なので、その話をします。 私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました。
日本に攻めて来る戦闘機を叩き落とすのが任務でした。
いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。 でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。 自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。
そこは、安心してください。
いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。 日本を守る話ではないんです。 売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものではないんです。
売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこうというんです。 それが集団的自衛権なんです。
なんでそんなことに自衛隊が使われなければならないんですか。 縁もゆかりもない国に行って、恨みもない人たちを殺してこい、 安倍さんはこのように自衛官に言うわけです。
君たち自衛官も殺されて来い、というのです。 冗談ではありません。 自分は戦争に行かないくせに、安倍さんになんでそんなこと言われなあかんのですか。 なんでそんな汚れ仕事を自衛隊が引き受けなければならないんですか。
自衛隊の仕事は日本を守ることですよ。 見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけないじゃないですか」
「安部総理はね、外国で戦争が起きて、避難してくる日本人を乗せたアメリカ軍の船を自衛隊が守らなければならないのに、いまはそれができないからおかしい、といいました。皆さん、これ、まったくのデタラメですからね。
日本人を米軍が守って避難させるなんてことは、絶対にありません。 そのことは、アメリカ国防省のホームページにちゃんと書いてあります。 アメリカ市民でさえ、軍隊に余力があるときだけ救助する、と書いてますよ。
安倍晋三の集団的自衛権「うそっぱち」解説
ベトナム戦争の時、米軍は自分だけさっさと逃げ出しました。 米軍も、どこの国の軍隊も、いざとなったら友軍でさえ見捨てますよ。 自分の命の方が大事、当たり前じゃないですか。
そのとき、逃げられなかった外国の軍隊がありました。 どうしたと思いますか。 軍隊が、赤十字に守られて脱出したんです。 そういうものなんですよ、戦争というのは」
「みなさん、閣議決定で集団的自衛権を認めてもですよ、 この国の主人公は内閣と違いますよ。 国民ですよ。 みなさんですよ。 憲法をねじ曲げる権限が、たかが内閣にあるはずないじゃないですか」
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