清原和博インタビュー「男として笑えるように。」2 ナンバー2008年4月24日
23年後、単身赴任の清原は、(母)弘子さん手作りの「お正月にも食べないようなご馳走」を腹に収め、高知東部球場にやってきた。
1990年。清原はこう語っている。
<いま、僕は田無市というところに住んでいるんです。(中略)いまは環八(環状八号線)の外ですから、まず環八の中に入って、次は環七(環状七号線)を制覇して、どんどん都心に攻め上りたい(笑)。>(『現代』1991年1月号)
『男一匹ガキ大将』精神とともに憧れの読売ジャイアンツにまで攻め上ると……。
「(清原は)邪魔さえしなければいい」
「(清原が二軍に落ちて)これで勝つ要素がひとつ増えた」
オーナーから「死んでも忘れない」暴言を浴びせかけられる。
そんな清原に故・仰木彬がかけた言葉。
「キヨ、俺がお前の花道を作ったる」
今、清原は言う。
「腐ってるな、と自分で思うときは、仰木さんの写真を見るようにしています」
真っ暗闇から最高照度の花道へ。
昨年6月。怪我からすでに9ヶ月が過ぎていた。「心が折れる」寸前だった。
「そう、引退です。そのことを家族、恩人に相談しなければ、と考えていた矢先……」
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