「一貫して脱原発」は大ウソ!「放射能はこわくない」と主張していた社会党
それでは、ソ連の核実験に抗議した社会党はどうだったのか?
社会民主党の福島みずほが言うように「一貫して脱原発」だったのか?
1955年8月。左派社会党の志村茂治と右派の松前重重義は原子力平平和用国際会議に参加するため、ジュネーブに向かった。
彼らを率いていたのは……。
<昼間の調査が終わると、毎晩、ホテルの一室に集まり、ランニングシャツにステテコ姿でベットの縁に座り、激しく討論を交わした。そこで原子力研究開発を含む日本の科学技術政策の立案、科学技術主管官庁の設立などについての意見をまとめていったのである>(『政治と人生――中曽根康弘回顧録)
なんと、マッカーサー元帥に「憲法改正に関する建白書」を叩きつけた男。「青年将校」中曽根康弘だった。
呉越同中。
自由党の前田正男を含む4人の国会議員は、イギリス、フランス、カナダ、アメリカを歴訪。ほとんど地球を一周して帰国すると、そろって記者会見をし、「原子力予算」の概要を公表した。
ようするに、「国民の血税をどう奪い合うか」について激論を交わしていたのだ。
実際、国産第一号原子炉の誘致問題が持ち上がると、志村茂治は地元、横須賀市の市電やバスにステッカーを貼りまくり、中曽根の高崎市と激しく争っている。
志村は「放射能はこわくない」プロパガンダの元祖でもある。
1955年12月。原水爆禁止運動が燃えさかるなか質問に立った志村は、
<米国と英国と双方が来春南太平洋で、しかもビキニで水爆の実験をするということを宣言しております。そうなれば再びカツオ、マグロの放射能の問題が起ってくるでしょうが、前回に被曝限度が高過ぎたのじゃないか、そのために捨てる必要がなかった量を捨てておる、ばかを見たというような声を聞いておるのであります>
放射線に安全基準などない。
数値を決めて「高すぎる」と主張する――。その非科学的な会話のくり返しが今の破局を生んだのである。
1966年9月。社会党の名物議員だった岡良一は、大漁旗にとり囲まれていた。
岡は三重県渡会郡に原発を建設するために海の上にいた。衆院特別委員会の視察団の一員で、率いていたのは、またしても、中曽根康弘だった。
呉越同舟。
地元の漁民による異議申し立ては、拘束者90人、逮捕者55人にのぼる大騒動「長島事件」に発展した。
芦浜原発闘争は、その後、37年間も続いた。
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