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2012年1月12日 (木)

わしらはどこで間違ったのか? 1973年 未発表原稿公開

 1973年。原子力はすでに「夢のエネルギー」でも「日本の救世主」でもなくなっていた。メッキははがれ落ちていた。

 新油田が世界各地で発見され、「石油がなくなるぞ」という脅しは効かなくなっていた。

 1972年6月。美浜原発1号機の細管に穴が開き、冷却水が漏れた。1973年6月。福島原発1号機のろ過処理装置から放射性廃液3立方メートルが噴出。一部は屋外にまで漏れ出た。同8月。美浜2号機の電気回路が故障。福島原発、敦賀原発では、1970年から毎年、燃料のピンホールが発見され、入れ替えを続けていた。

 なかでも、関係者にショックを与えたのが、ゼネラル・エレクトリック(GE)社製原子炉の欠陥だった。

 1973年8月24日。米原子力委員会は、

米国内10か所の原発に対し、「フル稼働すると燃料が収縮し危険である」として、5~25%の出力制限を命令した。10箇所の原子炉はすべて、福島第一原発1~4号機と同じGE製マークⅠ型。

 38年後の破局は予告されていたのである。

 さらに9月に入ると、GE社ウィルミントン工場で製造された原子炉で制御棒が上下逆さまに取り付けられているという疑いが出てきた。

 制御棒の中性子吸収体の量は、複雑な計算式の下、調整されている。

 福島1号機について、東電はすぐさま、

「検査の結果、運転を続けても支障はない」

 上下逆さまで支障がないはずがない!

 しかも、燃料の収縮で制御棒と燃料の距離も計算通りではないのである。

 調べてみると、島根原発で4本の制御棒が上下逆だった。

運転中の原発5基のうち4基がトラブルを抱え、出力はフル稼働時の1割に落ち込んでいた。

 政府は、いわゆる「核のゴミ」の処理を電力会社に義務づける法案を準備していた。その動きに最も激しく抵抗したのが、水野東電社長だった。

「ゴミ処理は国がやれ!」

 電力会社の本音は今も変わってはいない。

 各地で原発運転停止、建設中止を求める訴訟が起きていた。

Photo

 この本の「ロスチャイルド原稿」から、泣く泣く、

 削った部分の原稿です。大作になりすぎたんで。

 文庫化された暁には、全文公開できると思います。

 1973年は、原発存廃の岐路だったんです!

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