1970年代半ば 脱原発の最初のターニングポイントでのマスゴミ発言 朝日新聞の大熊由紀子 木村繁
新聞を調べてみても、福島第一原発の
制御棒が上下逆さまだったのかどうか、よくわからない。
少なくとも、フル稼働すると燃料棒が収縮し、
制御棒との距離が計算どおりでなかったことは確かでしょう。
1973年6月には、放射能が敷地の外まで漏れ出したのだから、
「事象」(INCIDENT)ではなく「事故」(ACCIDENT)が起きていた。
ちなみに、INCIDENTを英和辞書で引いてみてほしい。
『小学館ランダムハウス英和大辞典』にも、
「事象」などという言葉はない!!
わが祖国では、訳語ひとつとっても、
「事故を小さく見せる」ためのプロパガンダなのだ。
世界で初めて反原発運動を始めたのは、消費者運動家で、
今も大統領選に出馬し続けているラルフ・ネーダーだった。
日本人に有名な反原発運動家はまだいなかった。
『僕の町に原子力船がやってきた』(岩波新書)。
この本の復刻をお願いします、岩波さん!
泣いたね、わしは。
日本では、逆に原発推進派に有名人が多い。
若い女性で、かつ、原子物理学に詳しい、
朝日新聞の大熊由紀子さんはその代表。
原子力講演会や雑誌取材を数多くこなしている。
彼女はこう書いています。
<実際の原子炉が安全にできているかどうかは、本質的なことではない。”原子炉は何があっても安全”というようなものの考え方が重要>(東海村のPR誌『あす』)
狂っている!!
狂っているだけじゃなく、当時、糾弾の的となった、
GEの見解と酷似している。
<新技術に事故はつきもので、たいした問題ではないが、我が社にとって、運転が制限されれば大きな問題だから、早急に解決する>(GE副社長A・M・ビーカー 朝日新聞1975年2月1日)
今、読売新聞の社説を読んで怒っている人も多いと思いますが、
脱原発の最初のチャンスに朝日新聞が犯した罪は大きいよ!
<原子炉は軍事機密なんだから、細かな点は実地にやってみないとわからない。人が死んだとか、大勢がケガしたというのでもなし、大騒ぎするのは死んだりケガしたりしてからでいい>(朝日新聞科学部 木村繁記者『週刊朝日』1974年10月11日)
こいつ、許せますか!?
<都会地の人たちは、光化学スモッグや騒音や交通事故等々すでにさまざまな危険を分担している。いなかの人たちは、都会の人たちの危険分担のもとに、工業製品の恩恵にあずかっているのだ。いなかの人たちにも危険を分担して貰おうというのは正当だ>
唾棄!!
朝日新聞は、各地で原子力に関する記事を書いた
地方局の記者をすべて本社に集めて、講習会を開いた。
「社説に反する記事を書くな」
唾棄!!!!!!!!!!!!!!!
国はなんて言っていたのか?
<美浜原発は欠陥原発ではない。能力的に見て欠点があるだけだ>(和田文夫 通産省)
……。
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