オウム真理教裁判が終了?
心身衰弱です。
裁判はすべて終わった?
明らかになったことは何もありません。
1994年の暮れ、わしも、教団プロパガンダに、
利用されかかりました。
そもそもは、『ダカーポ』の新宗教特集だったと思います。
わしは当時の上祐広報に電話をして、まず、資料を送ってくれ、
とお願いをしました。
段ボール箱ふた箱ぶんの本や書類が自宅にやってきました。
わしはそれを読んでいません。一番上にあった本が、
『キリスト宣言』というもので、あまりにもあほらしい内容だった。
原稿も書きませんでした。
1994年の暮れに、『宝島30』から仕事の依頼がありました。
オウムの宗教施設に入れそうだから、取材をしてほしい。
ずうっと貧乏なわしは、仕事を断ったことがほぼありません。
このとき、松本サリン事件はすでに起きていました。
江川紹子さんが、毒ガスで殺されそうになったことは、
知っていたか、定かではありません。
当然、取材テーマは「毒物製造」ですよね。
しかし、オウム側がセットした取材でそれに迫れたでしょうか?
しばらくしして、編集者から電話がありました。
「向こうが断ってきた。中田潤は宗教的ステージが低いのでダメ」
サティアンに入って、教団プロパガンダに協力させられたのは、
宗教学者の島田裕己さんでした。
島田先生は、東京女子大教授を辞め、
マスコミでの仕事も長く封印されました。
わしは、スポーツライターの仕事に戻り、
リングで亡くなったボクサーの記事を『ナンバー』に書いた。
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一年がすぎ、わしはまたわが耳を疑いました。
「日本ジャーナリスト大賞の最終選考に残っているよ」
他の候補作は?
「江川紹子さんが有力かな」
がっくり肩を落とすしかねえよなあ。
江川さんの命がけの取材に勝てるわけがない。
闇はまったく晴れぬままに、あれから、16年。
わしは新橋にある東京電力「サティアン」で、
江川さんと再会しました。
江川さんの質問はやはり鋭い。
しかし、多くのマスコミの記者は、電力プロパガンダを、
右から左へと書き写しているだけです。
1995年は、日本が終わった年だとわしは思います。
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