原子力研究は呪われている。
そのことを如実に示したのが、1952年10月23日の日本学術会議である。
白熱の議論のきっかけは、茅誠司東京大学教授、伏見康次大阪大学教授の提案であった。
「政府に対して、原子力委員会の設置を申し入れる。来年4月の総会でその可否を検討しよう」
それに対し、
<広島大学の三村剛昂博士はわが身に原爆をうけた迫力をもって声涙下る“反対演説”をやった。>(『ついに太陽をとらえた』読売新聞社)
「米ソの緊張がとけるまで、原子力の研究は絶対にしてはならない」
三村博士の演説は、科学者たちに深い感銘を与えた。
以降、原子力研究に消極的になった科学者たちに対し、
「札束で学者のほっぺたを叩いて目をさまさせてやるのだ」
中曽根康弘は、そう豪語したと言われている。
「青年将校」の登場である。
中曽根康弘は、のっけからケンカ腰だった。
<さらに問題は日本の遅れ方である。インドですら原子炉を築造しつつある。日本の学術会議は、未だに左翼学者の圧力でこの新しき文明への学問的研究を怠っている。>(中曽根康弘『日本の主張』経済往来社 1954年)
親米右派の若きリーダーは、まず、アイソトープ(同位体)の利用例を書き並べ、「左翼が悪い」と斬って捨てる。
<貧乏な日本が、またウラニウムすらない日本が、原子兵器をつくる力などないことは明白である。この空虚な兵器製造の口実をもつて、癌の治療や植物の生育や洪水、冷害の予防の研究を事実上遅らせている左翼学者の偏見と日本学術会議の怠慢は責められるべきである。>
ならば、湯川秀樹博士も「左翼学者」なのだろうか?
辞表を提出し、病欠扱いとなったままの頃、湯川博士はこう書いている。
<……動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対し長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いなのであるから、慎重な上にも慎重でなければならないことはいうまでもない。>(『原子力委員会月報』1957年2月)
大きな分かれ道がここにあった。
原子力委員を辞めた湯川秀樹博士が、
「危険な事態が進行中です」
そう警告を発していたら、福島の海岸に6基もの原子炉が並んだだろうか。
政治家が言う「札束」とは、日本人の血税である。
1954年3月2日。中曽根康弘、稲葉修、斉藤健三らが「原子炉予算」を提出。総額2億3500万円。
「核分裂するのはウラン235だから」
そう言って中曽根は笑った。
野党、改進党からの提案だったが、たいした議論もなく3月5日に衆院を通過した。
新聞を見てびっくり仰天したのは、「原発推進派」学者の元祖、伏見康次博士であった。
<文字通り私はあっと声をあげた。数日前上野で、原子力研究をどう進めるべきかの公聴会を開いたばかりで、これは藤岡由夫さんが長い間原子力問題のデッドロックを打開するために計画した討論会で、一応の成功を収めたと見られるものであった。それが打開も打開、研究者たちの知らないところで、まったく新しい局面が展開されようとしているのである。>(伏見康次『研究と大学の周辺』共立出版 1969年)
寝耳に水だった。
<私は本当にとび上がった。>
伏見先生は大喜びしたのか? これ、狂喜乱舞だったのか?
中曽根康弘はこう語っている。
<学術会議においては、(原子力の)研究開発にむしろ否定的な形勢が強かったようであった。私はその状況をよく調べて、もはやこの段階に至ったならば、政治の力によって突破する以外に、日本の原子力問題を解決する方法はないと直感した。>(日本原子力産業会議『原子力開発十年史』 1965年)
政治主導。最低最悪の。
「政治」と「科学」が大ゲンカをしたまま、札束だけが積み上げられた。
伏見先生は苦悩した。
<私は輾転反側して眠られなかった。><悪くすれば、研究者と政治家と正面衝突ということになりかねなくなっているのである。>
政治主導で原子力開発が進めば、いつか災厄は起きる。
伏見康次博士は、おそらく、それがわかっていたのだ。
<私は夜おそくまでかかって“原子力憲章草案”を書いた。>
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