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2011年6月25日 (土)

日本最古の「原発の幽霊」 湯川秀樹博士の空席

 1956年4月。湯川秀樹博士は原子力委員会に辞表を提出した。

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 委員長は、『読売新聞』の正力松太郎。

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 このとき、二人の間にどんな会話が交わされたのだろう。

 正力にとって、湯川博士は、「どうしてもほしい人」であった。

 日本人初のノーベル賞受賞者。戦後復興の星。日本の英雄。

 湯川博士を招き、海のものとも山のものともつかない原子力委員会を権威づけする必要があった。

 1954年1月。『読売新聞』は、「ついに太陽をとらえた」という連載を開始した。

 第1回のタイトルは「ウラニウムの独り言」。

<私は原子力であり><太陽のような輝かしきエネルギーの源として、過去、長く、人類の文明をささえて来た石炭や石油にとつて代り、より新しく、より素晴らしい時代へみんなを導いて行こうとしている。>(単行本『ついに太陽をとらえた』読売新聞社)

 正力松太郎は、原子力を手放しで称え、「5年後に原子力発電所を稼動させる」と豪語していた。

 一方、連載2回目にコメントを求められた湯川秀樹博士は、

<日本での、紙と鉛筆だけでない原子力研究は時間の問題です。ただ私は世界情勢と国力をにらみ合わせ、各国が平和的に使おうという時期が来たらやるべきだと…>

「慎重な上にも慎重に」……これが湯川博士の一貫した姿勢であった。

 この溝が、2年後の辞表提出、さらには57年後の破局へとつながっていく。

 1956年1月4日。原子力委員会の第一回会合は、のっけから紛糾した。正力松太郎が「原子力委員会発足に際して」という声明を発表しようとしたが、その内容に反対意見が続出した。

 当然である。修正されて14日に発表された声明がこれだったのだから。

<われわれとしても今後5ヵ年間に原子力発電の実現に成功したい意気込であります。><われわれはまず第一着手として濃縮ウランの受入に関する「日米原子力協定」に基き、早急に実験原子炉を米国より導入し、進んで先進技術を取入れつつ、急ぎわが国独自の自主的基盤を固めなければならないと考えております。>

 慎重さのかけらもない。

 おそらく、<わが国独自の自主的基盤>という言葉は、正力の原案に付け足されたものである。

 このとき、湯川博士はどう言ったのかというと……なんと初会合から欠席!

 原子力委員会入りを湯川博士は、激しく後悔していたに違いない。

 4ヵ月後に提出された辞表は隠蔽された。

 おそらく、正力松太郎が握りつぶした。

 それから約1年間、原子力委員会は、湯川秀樹委員を「病欠扱い」した。

 この国に最初に現れた「原発の幽霊」……それは、湯川博士の空席だった。

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