室井佑月さんの発言について
「かわいそう」という言葉は、もの書きの仲間としてどうんだろう?
チェルノブイリ事故の被災地では、親たちが、なんとか子どもにだけは安全な食べ物だけを与えようとした、とわしは思います。
しかし……。
生きるために、毒物かもしれないものを、お皿に盛って、自分の子どもの前に差し出す日が来た、という記述を何度も読みました。
極限があるのだと思います。
その瞬間、「食べて」と言う母親の気持ちは、どんな言葉で表したらいいのでしょうか?
以下は想像です。
わしが父親だったら、土地を追われ、仕事もなく、一番安い酒を飲んでいると思います。
悲しみに利く薬が、わしにとっては酒しかないからです。
3・11以降、実際にそうだからです。
カミサンは選択を余儀なくされます。
3人家族なら、それぞれの視線が交錯しますよね。
高度成長期に育ち、バブル経済のなか、物書きになったわしには、ここから先の物語を書くことができない。
想像力は働いているのに。
つまり、これはテレビで「コメント」できる問題じゃないんです。
短い時間で語っちゃいけないんです。
わしは室井さんを支持しますし、室井さんを叩く人も支持します。
破局とは、そういうことなんじゃないでしょうか。
雨が降ると、ダメ人間のわしはさらにダメになります。
雨には何もできないからです。
放射性物質を含み、さらに巻き込んで、雨はただ、降るだけなんです。
ただひとつ言えることは、教室で給食を前にしている子どもたちが、「原子力発電によって豊かな生活をしよう」と自ら選択したわけではないんです。
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