自民党の権力とマスコミの権力、どっちが劣化した!?
マスコミこそ、今や、「最低の権力」である。
なぜなら、劣化した人間が独裁者(編集者)となり、人間の自由を奪い続けてきたからである。
こんな内容の本、どこか出版してくれませんか?
というわけで、連載の続きです。
「脱いだ女」「脱がなかった女」の50年史⑤
前年の東映の大作『青春の門』も象徴的である。
うら寂しい旅館の一室で杉田かおるが脱ぐ。このシーンが衝撃的なのは、簡単に言えば、杉田かおるが太っているから。もし、映画の裸が「サービス」なのだとしたら、どう考えても太りすぎなのである。
これは「サービスカット」などではなくて、体験である。佐藤浩市を我が分身として、観客も一度っきりの青春をリアルに体験する仕掛け。
「杉田かおるは根っからの映画女優よね」
これは筆者の家人(杉田と同年代の女性)の感想。確かにこの映画だけポンと観れば、杉田は堂々たる映画女優である。
しかし、家人はテレビをほとんど観ない人間で、筆者はこう問い返さざるを得ない。
「だったら、テレビで露悪と借金人生の切り売りをやっている今の杉田かおるは何者なんだよ?」
断絶は確かにある。
『天使のはらわた 赤い教室』を観た日のことを筆者は鮮明に憶えている。
文芸作品でもなく、「何周年記念作品」でもない単なる「ポルノ」に清純派アイドルだった水原ゆう紀が主演。岡山の田舎から上京したばかり。金も将来の展望も何もなかったが、映画を観る自由だけ与えられた筆者は、当然、小銭をかき集めて封切館へと向かった。
映画は、ブルーフィルムを観る蟹江敬三の姿から始まる。それを観客が見る、という二重構造で、「映像体験」をこれほど鮮明に浮き上がらせた作品もめずらしい。
ブルーフィルムのレイプシーンは、本物の「犯罪」であることが次第に明らかにされていくが、犯人たちは出てこないし、水原に復讐する意思もなく、ただ「失われた女」として、性の地獄へとまっさかさまに落ちていく。
映画館を出た筆者の暗澹たる気持ちの中心には、なぜか「純愛」がある。映画の中で思いを遂げられない蟹江敬三同様にそれは永遠の片思いでもある。19歳だった筆者にこれほど沁みるポルノ作品はなかった。
水原ゆう紀さんは当時をこう振り返る。
「主人公の名美が乗り移ったようになって、お店で他のテーブルの人たちを見ると、『幸せそうだな』って思ってしまうんです」
憑依現象というより、うつ状態に近い?
「1年ぐらい、仕事をする気が起きませんでしたね」
これもまた映画が「再現不可能」な「体験」だった時代ゆえ、なのではないか。
大月ケンヂさんはこう書いている。
<僕の同級生などは「時をかける少女」を観た直後、「これは俺と知世のことを描いているんだっ」と新宿東急付近で大声をあげ「土曜日の実験室!」と映画の中の台詞も叫んで走り出した途端、トヨタハイエースに轢かれて1ヶ月入院した。>(『変な映画を観た!!』ちくま文庫)
「再生可能な時代」になると、こんなバカなことは絶対に起こらない。映画が映画館で体験するものであったゆえに起こりうる勘違いであり、ビデオを購入し、原田知世を「所有」して繰り返し再生したら、どんなバカでも恋愛感情を持ち続けることは困難だろう。
この時代、埋もれた名作といえば、結城しのぶ主演の『天使の欲望』がその代表だろう。「本当のことしか言わない」ために、激しく殴られ、独りぼっちになる結城しのぶが哀れで切なくて……。しかし、ラストの全裸での姉妹心中など、スプラッター描写、暴力シーンがリアルすぎたせいなのか、活字での評価はおろか、ビデオにもなっていない。文字通り「再生不可能」な映画なのである。
部屋にビデオデッキが運び込まれてきて、劇的に変わったことがある。モヤモヤしてきて「なんかエロなことしてから帰りたいなあ」という夕暮。経済上、名画座のロマンポルノが選ばれることが多かったのが前半生。単なる「エロいこと」なら、駅前のレンタル屋で事足りるのが後半生。AVのラインナップが個人的なこだわりにほぼ応えてくれるようになると、ひとりでする「エロいこと」はすべて自分の部屋で行われるようになり……。男は誰もが「オタク」になった。
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