貨幣と交換できない記事②
16万馬券は当たるわ、片山さつきは落選するわ……。
ほんまに酒がうまいのう。
ということで、ボツ原稿その二。
「脱いだ女」「脱がなかった女」の50年史②
監督は『妻は告白する』『兵隊やくざ』の巨匠、増村保造だが、『盲獣』の登場人物はわずか3人。盲目の怪人(船越英二)とその母親(千石規子)、主人公にさらわれた奔放なモデル(緑魔子)のみ。ほぼ全編、3人は、女体のオブジェが壁から生えている怪人のアトリエに閉じこもっている。
「書いていて、3人を外に出してあげたくなった」(白坂さん)
期待できるのは、暗さと閉塞間のみ、ともいえる設定だが、増村監督は、母と息子と初めての女という究極の三角関係を、緑魔子の劇的な変貌を軸にクールかつ丹念に描き込んでいく。
「このキ〇ガイ!」「め〇ら!」と叫びながら何度も逃亡を図る緑魔子。
「テレビでは絶対に放映できないよ」(白坂さん)
映画がテレビによって押し流されようとしていた時代。巨匠もまた、テレビには絶対に映らないもの――裸、セックス、暴力で、時流と対峙したのである。
緑魔子は、嘘八百を並べ立てて息子を抱き込み、翻弄し、母の嫉妬を楽しむようになる。緑魔子は、いつしか、はすっぱな女から、妖艶さを撒き散らす「かっこいい女」へと豹変する。
三角関係を清算すべく、女を逃がそうとする母。過って母を撲殺してしまう息子。ここからの、内なる良識をヤスリで削られ続けるような展開を白坂さんはこう言って笑い飛ばした。
「増さん(監督)も俺も、どうせ会社は潰れるんだから、好きなことやろうや、って感じでしたよ」
凄惨さの塊となって闇に消える緑魔子を見送って、筆者はしばらく動けなかった。反体制を突き破って、反良識、反「やさしさ」、反「人間らしさ」……。
「観ている女の子が吐いちゃう映画」(白坂さん)
さらに、反「消化器系」にまで突き進む映像は、世界中探しても類を見ない。
この『盲獣』は、「裸映画」としても特異な構造を有している。
筆者の緑魔子のイメージは、「アングラの女王」であり、「あの人が脱いだって誰も驚かないよ」である。
映画ライターの松井修さんは言う。
「4大メジャー映画会社で『裸路線』の先駆者は、60年代、東映の緑魔子でしょう。彼女は『必然性があれば脱ぐ』と公言した初の女優とされています」
そうであるはずの緑魔子が脱がない。これが現実なら、常に全裸でなければおかしい設定(二人とも盲目になっているのに、パンツ一丁で暮らす)で、バストトップを巧みに隠し続けるのである。
同じ増村作品の『卍』で若尾文子が全裸なのにポイントのみをギリギリで隠し、「見せるよりエロ」と観客に思わせたように、
「ああ、これが1960年代なんだなあ」
そう納得しかけた。
映画評論家の秋元鉄次さんは言う。
「まだ映画が娯楽の王様であった時代、日本の女優さんは、五社協定(松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社が、1953年、「各社専属の監督や俳優の引き抜き禁止と貸し出しの特例廃止」に同意した)もあって、ずっと大事にされてきた。女性の頂点、高嶺の花である映画女優がヌードになるなんて、そもそも発想自体がなかった」
各映画会社の「スターシステム」がまだ生きていた時代のヒロインは、誰も脱がなかった。加賀まりこ、藤純子、浅丘ルリ子、岸恵子、緑魔子までも……。
「関根恵子は本当に偉大だなあ」
そう納得しようとしたとたん、エロさのかけらもない残酷描写の連続となる『盲獣』の最終盤で、突如、緑魔子がスポーンと乳丸出し……なぜ!?
小ぶりだが乳首と肌の色にほとんど差のないフレッシュな乳房……。「なんでここまで出し惜しみをするの?」と言いたくなる美しさである。
乳房をもみしだく船越英二の掌の位置、緑魔子がカメラに背を向けるタイミング、影を作ってギリギリ見えない照明の妙など、ここまでの撮影は大変な段取りだったはずなのだが……。
「ああ、もうどうでもいいや!」
最後の最後、緑魔子が吹っ切れてしまったとしか考えられない。
自由度もチャレンジ精神も世界一だった増村映画だが、「銀幕の素っ裸」だけはまだ、タブーの領域だったということか。
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