消費なき社会の思想
本当にどうなっていくのか、これが一番、興味深い。
恐慌下でも日本シリーズが行われていた東京ドームは満員。
これは、メジャーでも同様で、恐慌、世界大戦下、野球場に人があふれた。
これを正しく分析した文章に私は出会ったことがない。
高度成長期の甲子園球場、後楽園球場の写真を見てみ。ガラガラだから。
わからん。
経済成長が終って、「デジタル中世」になる、って言う人もいたが、急に神に祈り出した人を私は知らない。
アメリカでは、福音派のボンクラもオバマに投票した。
今のところ、オバマ以外「英雄」はひとりも登場していない。
今、リーマンの元CEOの財産を狙う銀行強盗が現れたら、全米が熱狂するだろうけど、「ボニー&クライド」も現れない。
わからん。
今、英雄はどこにいる?
ボクシングのヘビー級にいる?
メジャーリーグにいる?
アメフト、バスケットボール、欧州サッカーにいるか?
世界最高のサッカー選手は、C・ロナウドらしいが、10億人が彼に注目しているか?
『蟹工船』やドストエフスキーが売れたのは意外だったけど、古典で、そもそも、作品自体に力があるんだから「現代思想」じゃないよね。
寺山修司は、ハイセイコーについて、「英雄を必要としない時代=大衆社会」と定義した。高度成長期、英雄はいなくなった。
今も、英雄を必要としない時代だ。
それは同じなんだけど、超満員の東京ドームを見て、わしは思う。
市場原理主義で日本人はバラバラにされたけど、その一人一人は「人間を見て感動したい」と切に願っている。その「人間」は「英雄」ではない。
長嶋茂雄はいないけど、人間に感動したいのである。
たとえば、西武の片岡に。
英雄、神による「奇跡」は期待しない。しかし、人間はやり遂げる。
これも、世界を取り戻す過程の心根、なのではないか?
妄想かもしれないけど、それが、田んぼをいっしょに耕してくれる人、になれば、「国家」ではなく、「社会」は蘇るのではないか?
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント